うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

「天人五衰」読書感想文 割と長い

どうも僕です。
 ついに豊饒の海を読み終わってしまったんですわ・・・
 今回の話の主人公は安永透君、両親を亡くした孤児であり、灯台で船が来るのを観察して報告し続ける仕事をしていて、キチガイの絹江とたまに話す生活をしている。この絹江は、ブスすぎて好きな相手に振られたことをきっかけに、全ての人間の行動や反応や視線を「自分が美人」であることの理由として勝手に解釈するようになった正真正銘のキチガイ
 そんな中、78歳の本多繁邦が友人の慶子と一緒に彼の働く灯台にやってきます。読書感想文しか読んでない人からすると、この慶子が謎で仕方ないと思うだろう。こいつは第三巻の暁の寺で出てきて、本多の別荘の隣人、話の最後でジン・ジャンとレズセックスした婆さんだ。 
 78歳の本多は透を一目見た瞬間に自分と全く同じような生き方をする人間だと気づく。さらに脇に三つの黒子を見つけて、またしても生まれ変わりだろうと思って引き取って育てることを決意する。これまでの三人はあまりに強烈な尖った純粋さ故に、20歳で死ななければならない存在であったことを彼は理解していたので、そうしたものを押し殺し長生きさせるために普通の人生の生き方を教えることにした。世界の裏側を隅々までみることのできる透は、本多が引き合わせたお見合い相手を罠にかけて、一度相思相愛と思わせながら破局させたりした。
 そうして時間が経って20歳になったとき、透が本性を見せる。世間に対しては好青年を装いながら80歳の本多を苛めはじめたのだ。悲劇は重なり、本多が覗き魔であることがバレてしまう。いい感じに胸糞悪くなってきたところで、慶子が透に転生の秘密をバラす。自分のことを世界の裏まで見ることができる支配者だと思っていたプライドをズタズタに引き裂き、特別であることの証明をすべく自殺を図る。が、死なない。21歳を過ぎても結局死なず、清顕の生まれ変わりでないことが発覚する。
 人生の時間の虚しさを考えながら、聡子に会いに行く。覚えているだろうか?聡子は春の雪で清顕が命をかけて会いにいったあの聡子である。本多は人生の締めくくりに昔話をしようとしたのだが、当の本人は何一つ覚えてないと言う。
おしまい。

天人五衰で語られることの一つは、若さ故の傲慢さだろう。この話で透は自分のことを特別な存在だとずっと思っていたのだ。というのも、孤児でボーっと灯台を見ていただけの生活だったのに、唐突に金持ちの老人に拾われたりするし、三つの黒子もそうだし、凄まじい洞察力で人の心の裏が読めるからだ。その傲慢さも慶子に打ち砕かれるのだけども。「覗き魔の爺さんとレズの婆さんに拾われた哀れな子ども」って言われたときの透の絶望感、転生の秘密を全く知らずに生きてきたという無知を知ること、そして三度目の転生の結果ではない凡庸な人間であるという事を知った絶望。この落差こそが若さゆえの自信を描いている。
二つ目、見るという事の無意味さ。世界の裏を見抜いていく一方で、そのことでどれだけ世界を動かそうがその当事者ではないという虚しさ。
三つ目、生きるということの虚無。老人になった本多は今までの人生の波も全て一瞬の間、全てまとめて結果であるとする。インドのベナレスで牛大量に殺され、人が大量に燃やされ、生きているものでさえただの宇宙の元素のひとつでしかないという虚無感。生きようが生きまいが、輪廻転生しようがしまいが、全く持って無意味な発想でしかないということ。ニーチェ永劫回帰に似ている。この虚無を表現するためにあるのが輪廻転生くどい説明だと思う。また、聡子が覚えていないという事もまさに虚無だろう。その清顕の人生の一回性の中での強烈な生を否定し、その事実は幻であったかのようにしてしまう。どれだけ凄まじい生き方をしても、認識次第ではなかったことになってしまうという生の虚しさがここにある。ちなみに三巻では勲の生き方も否定されている。
こういう虚しさの中で、対比されるのが清顕や勲の人生の一回性の中でしかできないことだ。理性によって見すぎること、観察しすぎることによって現れてくる虚無に染まることなく、純粋に一回の人生を謳歌した彼らの行動が際立ってくる。本多は聡子が覚えていないと言ったとき、怒って「は?」と聞き返すのだが、これこそは三島由紀夫の虚無に対する本心何じゃないかと思う。以下のような文がある。
 
 世間を黄塵のように包んでいるあの人間たちのお喋りの声を本多はきいた。かまびすしく常住言い立てるあの条件付きの会話
「おじいさん、病気が治ったら温泉へ行こうね。湯本がいいだろうか、それとも伊香保が」
「この契約問題が片付いたら、どこかで一杯やりましょうよ」
「いいですね」
「今が株の買い時だというのが本当でしょうか」
「大人になったら、シュークリームを一箱みんな一人で食べちゃってもいいんだね」
「来年は二人でヨーロッパへ行こう」
「あと三年たてば、貯金で念願のヨットが買えるよ」

人が如何に時間というものから目を背けているかということに気づかせる言葉たちである。人生の一回性の中で必死に生きた清顕や勲と比べて、一回性から目を背けだらだらと時間を浪費する人の言葉である。全て一瞬の間であり、どれだけ幸福があろうが不幸があろうが死ぬときには一瞬であるのにもかかわらず、それに縋ることに何の意味があるのかという虚無と、だからこそ、その中で必死に生きようとするその強い意志の重要性をこの小説は訴えかけているのだと思う。
三島由紀夫は、虚無に気づきつつもそれをあえて無視して切腹を選んだのだと思う。今の時代、その行動は無意味に終わり、もはや覚えている人すら少ないのではないだろうか。それすら彼の想定の範囲内であったのだろうが、何もない人生から必死に逃れようとした人生の虚無と、純粋な行動の対立の結果、後者が勝ったのだと思う。

長すぎたわ。じゃあな。