うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

一生独り身で良いという人へ

 若干の肌寒さを覚え、朝目が覚める。また眠ろうとする。眠れない、またあの子の思い出が眠りを妨げる、とはならなかった。
 既にあの子の顔が薄れかけている。あの時泣いていた顔、あの子の香り、しぐさなど、あまりの早さで忘れていくことに恐怖を覚え、逆に思い出しているところだ。
 昨日までの胸が締め付けられる思いは相当薄まり、逆に漠然とした恐怖が顔をのぞかせてしまっている・・・。
 かの三島由紀夫の小説、天人五衰では、主人公の前々前世と60年以上前に壮絶な恋愛をした女性が尼になっており、主人公の親友:本多が会いに行く話がある。
この時も、彼女はその恋愛を覚えていない・・・。本多は「は?」と一言思わず言ってしまう。恐ろしき空洞である。
 私は、生きる速度を落とす、だとか運命の重要性だとか、そういうのをまた忘れて、偏屈な人間として生きていくのかもしれない。
 何故僕が小説など書きだそうとしたのかと思いだした。この生きている自分の忘れてしまう思い、記憶を何とか取り留めようとしたからだ。
 
 デートで使ったパンフレットを捨て損ねて、あ~また思い出してしまう、早く捨てなきゃ、と思っていたが、思い出すどころかもう記憶から抜け落ち始めている。不思議なことだ。愛していたはず、恋をしていたはずなのに。
 恋愛感情は恐らく人間が持ちうる最大のものである。生存本能よりも種の存続という使命に基づいている。そんな変な理屈はさておいて、恋愛感情は強烈な爆弾である。今回も相当な衝撃だった。少なくとも一昨日までは、あの子との思い出は幾重にもなって、眠りを妨げた。恋は100万ボルトだのフレーズが無限に出てくるのも頷ける。
  
    虚無、その兆候はあった。昨日悪夢発生装置と呼んだベッドに横たわったが、あまり苦労せずに眠った。6回しか会ったことがないからだろうか、過去に失恋した記憶と違って、一瞬で消え去りつつある。
 徐々に心が擦れていくのを感じる。恐らく失恋のショックも徐々に減っていっているに違いない。あの、眠ろうとして夢を見る瞬間、急にあの子との思い出がよみがえり、はっとこれが夢で現実で寝ていると引っ張り戻されるようなあの瞬間は、もう今後訪れることすらないかもしれない。もはやあの子の顔がどんな風だったかも怪しい。

 最近、恋愛すらしない人がいると聞く。彼女を作らず、ただ一人で生きていく、と。恐らくそれは人類がこの失恋という最大のストレスから身を守る防衛本能なのだ。一人であれば他者からの永遠の否定に苦しむことはない。
 それは死に最も近い感情である。死とは自分の存在を強制的に否定する。故に最も恐怖される。失恋はその一部、自分を他者という一存在に否定される瞬間。自分の全存在を露出させ、そして否定される。相手がどのような言葉をかけ、慈しんだところで否定されたという結果は変わらず、自分の存在と真っ向から対峙する。だから、昨日から反省が始まっている。
 果たして何が正解なのか、という問いへの答えもない。いつか誰かに全存在が許される、その瞬間は結婚にある。友人だって、自分を受け入れてくれる存在だ!という人はいるかもしれない。ただその友人は常にいるわけではない、日常の細部まで共に過ごすわけではない。
 夫婦の存在に対する特異性はそこにあって、多少前後はあれ常に一緒にいる。そして子どもは恐らく最後まで一緒にいる。人は何か精神的な支柱がなければ生きてはいけない。オタクカルチャー、宗教、流行のファッション、みんなそのために存在している。宗教はその賞味期限が人より長いため続くが、他は人が支柱とするには腐るのが早すぎる。こうした趣味を共有したいというのはある意味で自分の存在の生き写しを共有すること、すなわち存在の受容なのだ。
 こう、ダラダラと語ってきたがもう仕事に行かねばならぬ。凄まじい否定、凄まじい忘却に振り回された数日だったが、一生独り身で良いという人へこう伝えたい。
 「一回パートナーを作ってみなさい、本当に要らないと思えば独りでいい。でも探さないと後悔するよ。」と。フラれた男が寂しく語りました。