うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

「鏡子の家」読書感想文

どうも僕です。
 最近、読書をサボっていて、感想文もサボってます。
 古い本はやめて、新しい本を読もうと思い立ち、原田マハの「暗幕のゲルニカ」を読み切って、感想文サボりながら、次に手を出したのがこれですわ。
 ゲルニカも面白かったんだけど、感想文ほどでもない印象でしたわ。やっぱ、三島由紀夫はすげえよなぁ!?
 そう!この「鏡子の家」、三島由紀夫の作品です。
 「Mishima」という日本では販売禁止の伝記映画がありまして、本人の人生を振り返りながら、「金閣寺」、「鏡子の家」、「奔馬」の三作品の話を挟んでいくストーリーなんです。勘のいい読者はわかったでしょう。真ん中だけ読んだことがなかったので、今読んだというわけですね。
 この作品は、「鏡子」を中心に、清一郎、夏雄、収、俊吉の四人の若者たちの人生が描かれた作品で、一応女も二人、光子と民子がいるんだけど、完全な脇役でなかったことにしていい。
清一郎は、世界の破滅を信じる男で、世の中の全てが意味のない、くだらないものだという思想を持ちながらも、社会ではうまくやっていくタイプの人間。
 夏雄は、寡黙な天才芸術家。
 収は、一度も舞台に出たことのない演劇家。
 俊吉は、あえて思想を頭の中から追い出して、戦い続けるボクサー。
この四人の話を聞き続ける存在が、鏡子である。
 さて、清一郎だけ紹介がヤケに長いんだけど、ストーリー的には、ダラダラ出世していって、妻に不倫されて、最後は乱交パーティを観察するとかいうそれだけの話だったと思う。三島由紀夫の破滅願望が具現化したような存在。
 次に夏雄。天才芸術家だったんだけど、世界に全く意味がないことに気づいて。スランプに陥る。それは、芸術が全く無意味なものを一度取り出して、意味のあるものに変えるからで、その行為を認識することで、見る物すべての存在が感じられなくなったわけ。そこで、存在の不確定な神秘主義、カルトみたいなものにハマってしまうんだけど、最終的には、自分が確実に存在することを認識して、元に戻って元気になる。神秘主義と、実世界の間を行き来するのが、芸術家なんですわ。実世界をそのまま描写するのではなく、実際には存在しえないところから、たまたま遭遇した不思議なものを永遠の枠にはめて、現実世界の絵として還元していくわけで、夏雄は、意味のない世界にどっぷり浸かってしまって、。
 収もまた、自分の存在の確信を得られない人間。それで、一度筋トレをするようになる。筋肉の質量こそが実在の証明だからだ。そんな中、お母さんの家が借金取りに荒らされ、持ち前の筋肉で戦うも瞬殺され、無意味さを自覚する。結局、肉体も年齢と共に衰えていく存在であり、消滅する存在なのですわ。^^わかりますかね?^^
 そんな中、借金取りの親玉の婆さんと借金のカタに付き合わされることになる。この婆さんは筋肉が大好きで、収の身体をタオルで拭いたり、触るのが好きだったんだけど、好きすぎて、皮膚をナイフで切りだす。普通なら、何やってんだこのくそババア!というところであるが、収君はこれこそが実在の証だと悟る。死んでいる血ではなくて、生きている血が流れていることこそが、自分が世界に存在して、生きている証明なのだ。最後は、二人で心中。
 これがメンヘラの心情を的確に示してるっぽいんだなぁ。血を見て生きてる実感を感じるとかまさにね。三島由紀夫はそこまで読んでいたのか、それともまだあの時代には目立ってなかっただけで存在していたのかわかりませんがね。
 俊吉はボクシング世界チャンピオンになったあと、手を骨折して二度と拳を握れなくなって、生きる目的を失うのだが、今まで捨ててきた思想を拠り所に人生を生き続けることになる。
 
 なんというか、三島由紀夫を四人に分裂させたような話でしたわ。ただ、論文として面白くても、話としてはあんまり面白くないと思う。600ページもあるんだけど、僕みたいなファンじゃないとなかなか読み続けるのは苦しいものがある。作品全体をニヒリズムが覆っていて、読めば読むほど憂鬱な気持ちにさせられる。そして、たぶん今の時代も戦後もみんなの考えていることは一緒なんだろうなって思う。

じゃあな