うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

俺は社会の敵ではない。だが、社会は俺の敵だ。

生きるのが辛い・・・。ただひたすらに。
 今日、歓送迎会があったが、もう限界だ。無理して笑うのに疲れた・・・。本来笑いとは自然に出てくるものだが、俺にとってはもはや仕事である。
 笑う門には福来るなんてのは嘘。笑うことはそのまま不幸へのヘルロードだ。
 俺はトーマス・マンのトニオグレーゲルを読み、自分と同じ社会不適合者の影を感じ、100pちょっとしかないのに途中で読むのをやめた。この時点で完全に社会不適合者の仲間である。
 今ならわかる。太宰は人間失格で、周りの目をよく見てうまくやってきた、と自負している。しかし現実では、こいつやばいぞ、と気づかれていたに違いない。なぜわかるかって?俺がそうだからだ。いや、もうこんな話をしている時点でそこは過ぎたのかもしれない。気づかぬ方が幸せなのは言うまでもない。
 そもそも、読書なんていう趣味が糞なんだ。しかも好きな本は純文学か、学術書
「休みの日何してんの?」
「読書」
 これだけで相手は困る。空気が静まり返る。そこで頑張ってもらって、
「どんな本読むの?」
 と聞かれても
「そうですね~三島由紀夫とか~」
 などと答えたら、この後誰が話をつなぐのだろうか?三島由紀夫を読んでいて、うーんここがすごい、と言える人間などどこにいるのだろうか?池上彰とでも話すか?
 これが例えば、現代のミーハーに近づいて村上春樹と答えても、そう変わらないだろう。しかも、俺は村上春樹はほとんど読んでいない。一冊だけ。「海辺のカフカ」だけだ。
せめて「ノルウェイの森」ならチャンスはある。だが、読んでない。読んだとしてもチャンスがあるだけで、100発打ったら1発当たる程度だろう。
 毎朝新聞の読み合わせをするのだが、どうしても脳みそが学問的な考え方をしてしまう。周りはみんな日経平均を当てたり、売ることを考えているのに、一人だけ将来の社会の全体像を想像しているのである。馬鹿馬鹿しい。なんの役に立つというのだ、中途半端なくだらない妄想が。更に、読書で脳のキャパが半分以上埋まっているので、仕事も大してできぬ。
 そんな社会不適合者が必死に気を遣っても、ぎこちないのだ。加えて、上記の如く会話も続かない。傍からみれば滑稽だ。人間失格が人間の振りをして必死に取り繕っても、不適合者の自我が見え隠れして、「あ、こいつやべえな」と気づかれる。影で散々悪口を言われているのだろうなぁ・・・・。
 同情されている可能性もあるが、どちらにせよいい評価が得られているはずもなく、社会不適合者であることには変わりない。
 社会不適合者だから、小説家になろう!という発想もある。三島由紀夫がどっかの評論でも言っていたことだ。だが、ブロマガをダラダラ書く程度の俺には到底無理だろう。
 あ~社会人やめたい・・・。社会人どころが人生やめたい・・・。
 俺は社会の敵ではない。だが、社会は俺の敵だ。終わり。