うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

人生の虚しさについて

どうも僕です^^
 最近、三島由紀夫に影響を受けすぎて常に虚しさが襲ってくる厨二病になっている。ここまで強く影響を受けたのは、自分がそう考えていて敢えて目を背けていたという事実があるからだ。この世の人間は皆、僕と同じように目を背けているのだと思う。それは、人生の無意味さである。何をしたところで最後は灰になるという事実。もはや、残らないのである。何をしても、何を感じても一瞬の間でしかないという発想こそが虚しさの原因である。三島は、虚しさの中で人生の意味は一回性であり、行動に価値を見出した。だからこそ、一回性の対象である天皇が失われた日本を憂いたのだと思う。しかし、彼もベナレスで、人の死体が無尽蔵に焼かれていく様を見て、人間だろうが何だろうが所詮物質、元素でしかないという事実を悟ったのである。以上のような絶望的な思考の結果に対する彼の答えは、まさに切腹だったのだと思う。改めて言うが、私はこうした発想に共感したのである。
 この思想は僕の中の人生には、いつ、どのように起こったか?ゆとり世代の影響で、極限まで拡張された夏休みが三島の境地に至らせたのだと思う。あれほど楽しみにしていたものが一瞬で終わるという事実。しかもそれは一か月以上あってゆとりは十分にあり、楽しんでいた。須臾の間であった。最初にその虚しさが襲ったのはたぶん夏休みであったが、そのあとは卒業の度、学年を上る度にと、年齢と共に徐々に頻度を増している。虚無が頂点に達したのは、大学時代である。四年間全てが夏休みのようなもので、無限ともいえる時間がそこにはあったが、就活を終えて振り返ると何もなかったのである。東京に対する希望も打ち砕かれ、またしても虚しさが自分を襲ったのである。
 そこで私が導き出した結論は全てに好奇心をもって行動するという発想である。東京に行っただけでダラダラと退屈な人生をしてきただけの自分に対する反省であった。大学生活の締めくくりとして、唐突に滝に打たれたことから始まり、単身でイタリアに特攻、京都にも旅行に行き、募金もして、大量の本を読んだ。意識高い系などと言われようが、楽しむ心をもって行動してやろうという気になったのだ。こうして、三島由紀夫が人生の意味を一回性の行動に求めたのに対し、私は好奇心という認識に求めた。ここが彼と思想が異なる点である。行動はあくまでも認識の結果にすぎないとしたのである。
 こうして、人生の虚無に対して認識で以て対抗しようとしたのが、私である。それらの経験は非常に楽しかったし、虚しさも吹き飛んでいたように思われる。しかし、本題に対する結果は三島と同じであった。認識で以て行動することは虚無を土台としてしまっているのであって、必然的に行動にも含まれてしまう。だから、思い起こす度にその欺瞞に気づかざるを得ないのであり、その存在を証明してしまう。所詮は見ないふりをしていただけのことであった。こうして、純粋な行動こそが唯一の救いだという三島の結論に共感していくのである。例えば、キリスト教の信者が神を純粋に信じて善行を積むことである。そして、更にここまで思考を進めた我々は不可能性を悟るのだ。純粋さを客観視してしまった以上、そのものになれないからである。どうやって人生を生きればいいのだろうか。人間は自由の刑に処せられているのだ。

終わり^^