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つまりそういうこと

ミシェル・フーコー「監獄の誕生」読書感想文

どうも、僕です。
学問シリーズ第二回!!ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」ですわ・・・読書感想文っていうのがあってるのかはわからん。

大まかに言うと、君主制の中では派手な身体刑が行われていたんだけど、資本主義社会になることで、人を効率的に成長させる規律・訓練が重視されるようになって、その中心が監獄だっていう感じ。以下で詳しくまとめる。

 まず、身体刑が野蛮だとか何も考えていないとかそういう印象を消し去ることから始まる。
身体刑がただ残虐なだけじゃなくて細かく量を調節された刑罰だと述べられている。
例えば、苦しめるだけじゃなくて、その罪の重さに応じて何回鞭を打つとか何日見せしめにするとか、最後はどうやって殺すかなど細部に渡って決められているのだ。
こうした方法には三つの役割があって、拷問による自白の役割、刑罰によってその人間の犯した罪を国民に知らせる役割、そして国王の権力を見せる役割だ。
 まず、一つ目は言わなくてもわかるだろう。二つ目は上の例でも挙げたように罪の軽重が表現されることもあれば、自分の罪を書いた札を首から下げて市中を歩かせたりしていることがあった。三つ目は、民衆に見せつけることで国王の圧倒的な力を見せる役割があったわけ。ところがこの役割は危険を伴う。理由はいくつかあって、一つは国民に力さえあれば何でもいいという思想を植え付けることになるからだ。また、刑の失敗は王の力の弱体化を意味する。それは民衆に反逆の意志を起こさせることにもなる。最後に公開することで、祭のような状態になり、一時的な無法状態が起きてしまうことだ。

 以上の過去の話から次に出てくるのが資本主義社会。君主からブルジョワジーに権力が移り、守るべきものは君主権から所有権に変わる。そこで、君主制の時代では黙認されてきた盗難のような軽犯罪が注目される。その段階がさらに下がっていって、資本主義的な罪が加わってくる。例えば、私語、遅刻、忘れ物などだ。その細かさに合わせるように学問も見る場所が細かくなっていく。例えば、腕をどのように動かせば最も効率がよくなるか?どのように時間を割り振れば効率が良いか?といったように。そこで生まれてきたのが、学校や軍隊そして病院だ。そこでは三つの方法が生み出される。一つは個人の監視。今までは大雑把にしか個人を取られていなかったけど、現代では一人一人の個性に合わせて規律・訓練していく。例えば学校の例。頭の良し悪しとか運動の不出来に合わせて教え方を変えるアレだ。次に、褒賞と懲罰。当然罰がないと強制できないので、私語したら殴られるとかそういうこと。三つ目は序列化。学校だと席を決め、必ずそこに座るように固定するアレ。好きな場所に座ったりすると、秩序が乱れるからな。次に階級分け。塾でいうと東大クラスと国公立クラスみたいなアレ。最後に一つの集団を形成させて役割を与えさせ、監視の効率を良くすること。頭のいい奴がよく勉強できないやつに授業中教えてただろ?アレよ。そうすることで、各人の個人性をうまく生かしつつ、一人の教師がその場を監視することが出来る効率的な空間が出来上がる。結果として、ヒューマニズムが生まれる。
 こんな感じで上手く監視する機構ができてくわけ。他者の目線なんかもそう。一方監獄では、独房が作られ囚人が分別され、その成長具合によって完全な監禁から他の囚人との共同作業、働いた報酬を得られるなどなど特典が作られ、囚人に階級が作られていく。こんな感じ。あとは監視だけどこれはいろいろあってもういいよな。パノプティコン的な発想が大事なんや。もう解説するのめんどくさいわ。つまりね、見てる人が本当に見てなくても見られているって思わせる施設が最も効率的な監視の方法ってことや。

 でもこの方法には一つの問題があって、規律・訓練の権力は司法と独立して自由にふるまうことができてしまうということ。司法が有罪って言ったら監獄にぶちこまれるわけだけど、そこは犯罪を罰する場所じゃなくて犯罪を起こした非行性を治療する施設という正当性を持っているので、多少の事は自由になるのですね。また、学校だろうがなんだろうが正当性を確保してくるわけ。昔体罰が普通にあったのもその名残。もう一つは再犯率の高さ。監獄に逆戻りするアレ。今でもたまに問題になるよな。そんな欠陥をもっているのになぜ既に百年くらい続くのかというと、監獄を作ることで「前科者」を作るからだ。レッテルを作ることで犯罪者は常に普通の人間から監視し続けられるわけで、結果として就職できなくてまた盗みに戻ってきたりするわけなんだけど、やばそうな奴らを一つのグループとして監視できるから役割を果たしているわけ。しかも、そうして大衆と犯罪者を対立関係に置くことで、協力して権力を転覆させるようなことを避ける役割がある。明治維新だってあんなのただのテロですけど、要はそういう犯罪者が権力機構をゆすることになることを避ける為に、少数にして隔離させる必要があるわけで、以上の役割があれば再犯したって全然いいわけ。

 そして、監獄に反論があってもうまくいく最後の理由。それは、同じ制度が社会に浸透しているから。犯罪者を矯正するってのは程度の差はあれ、学校での私語の禁止とか、病院で患者に食事制限させたり、社会で研修したりと社会全体に広がっているからだ。監獄はおかしい!っていうことは社会全体を否定することになって、社会を構成して育てられてきた人間全てを否定することになるので、反論不可能になると。

と、いうことで監獄が誕生して社会に根付いてきたわけ。
これを聞くといじめがなくならない理由もわかる。内藤朝雄がいじめの解決策として学校をなくして、自由に受けたい授業を受けられるようにすることを言っていて、理論的には正しいけど、現実的じゃないと思っていた。でも今ならわかる!そもそも学校は監獄と、病院と、軍隊と、職場と・・・結びついているのだから、なくすことができないわけ。結果としていじめはなくならないんですね。悲しいですね。学校の独立性が問題だとか、いじめに司法が介入できないっていう発想も、学校の本質が監獄と同じで、しかも司法も同じ性質を共有しているからなんでしょう。

終わり。