うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

最近読んだラカンの精神分析学をまとめてみる

どうも僕です。
ジャック・ラカンの新書みたいなの読みました。ちくま学芸文庫の「ラカン」ってやつですわ。絵がたくさん描かれてて、簡単な感じを出しながらくそ難しい。腹が立ってくる。

ラカンの発想によると、完璧な自我、精神はないらしい。
人間がどれだけ言葉で精神を言い表そうとしても、それは本当のことを隠しているだけということらしい。
まぁよく自分の性格についてとか考えてみれば、そんな気がする。就活は嘘なんていうけど、その一つは自己分析がどうあがいても嘘っぽくなるところかもしれない。

なぜそうなるかと言うと、自分と言う主体は言葉=シニフィアンによって表現されるわけなんだけど、そもそもシニフィアンの意味は他のシニフィアンとの違いによって生まれるわけ。
そこで、どうなるかというと、シニフィアンは主体を他のシニフィアンに代表象する。この関係は、主体はシニフィアンによって表現されているわけなんだけど、それでしか表現できないから本当の事は言えないんだけど、一方でシニフィアンを通すことで主体は関係を持つことが出来るようになるという分断と結合の関係である。
これが象徴界
もう一つは想像界。自分のイメージの世界。別になんでもいいんだけど、梅干しを想像したら云々。
最後が現実界。現実っていうのは今生きてみている世界のこととは違って、想像できないもの。表現できないもの。トラウマもそう。トラウマとは不可能性であり、言語活動による象徴界によって抑圧される困難のこと。そのトラウマを現実に出そうとするとき、言葉によって自我が巧妙に押さえつけるというのがラカンの発想。


ここまで来て、やってくるのが人間の発達段階としての欲求、要求、欲望の三段階。
欲求は熱い寒い腹減ったっていう感覚的な話。熱いなら冷房かければいいし、寒いなら暖房かければ満たされるもの。赤ちゃんがおしっこ出したとき泣くみたいなやつ。
要求は欲求の進化系。人間は強欲なんでね?熱い寒いだけじゃなくて、あれが欲しいこれが欲しいとか言い出すわけ。この要求はそれが否定されるまで続く。例えば家買って!とか無理やろ?ここに不可能性が出てくるわけ。トラウマでも出て来ただろ不可能性。むしろ不可能なことを欲しがるのが要求
つかれたから、また明日。