うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

自由が欲しい。

ここ数カ月、他者の視線、わずかな生活音が気になって仕方がない。社会人を始めて、外回りを始めて、今まで気にならなかったことが目の前に増え続けている。
 そんな時私は、それに何かよくわからない恐怖というか、苛立ちというか、嫌悪というか、とにかく「もうやめてくれ!」と叫びたくなるような、そんな気分に苛まれます。
 実存は本質に先立つのだそうです。口先だけなら、正しいのでしょう。でも現実問題は本質に縛られているのです。あぁ、真の自由が欲しい。他人に無意味な愛想笑いを浮かべることなく、心のこもっていない感謝の気持ち、謝罪といった自分への嘘をつかなくてもいいような、そんな自由が欲しい。
 どうして、社会を複雑に作ってしまったのでしょうか?いつも社会という有象無象、個体性ではなく人類社会という抽象的な何かに奉仕することを求められ、円滑に生きていくように強制されます。世の中は自由だと言いながら、全く自由ではありません。
 自由主義者は他人に迷惑をかけなければ、何をやってもいいと言いますが、現実はそうではありません。いつも鉄鎖に縛られているのです。目に見えない社会という無数の亡霊が、両手両足を掴んでいるのです。義理だの人情だの、常識だの、長い年月をかけて熟成された監禁装置が私の自由を否定しているのです。
 日本は神の代わりに社会そのものが、宗教の役割を果たしていると言います。それこそは日本が完成された監視社会であることを示しているのです。宗教社会においては、人は神にのみ遠慮していればいいのです。もちろん、現実問題は人間に対してもそうした配慮をするのでしょうが、日本人のように神=社会の世界では配慮の重さは、究極にまで高められるのではないでしょうか?そして、それこそは相互監視社会の完成形。フーコーの予想した未来社会に最も早く到達したのは日本人ではないでしょうか?
 話しかけられない自由が欲しい。表現の自由が欲しい。
 やっぱり、自殺するしか道はないのでしょうか?自殺をすれば、何物も私に干渉することはできません。完全なる「モノ」に変化して、他者から解放されていて、自由です。一方、意志がなくなって何もできなくなります。そういう意味では不自由でもあります。あぁ!死でさえも、自由の拠り所とはなりえないとは!
 生殺しとはまさにこのこと、常に拷問を受けて続けているわけです。
 
 おやすみなさい