うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

キルケゴール「死に至る病」読書感想文

どうもこんにちは、僕です
今回はキルケゴールの「死に至る病」を読みました^^

小説でもないので、読書感想文というより解説になるぞ!
第一に死に至る病とは絶望のこと。絶望とは精神の病のことであり、ガンのような肉体的な死に至る病とは違う。キリスト教的に言えば、精神は不滅で最後の審判の後には復活する根本であるので、肉体的死よりも重いというのがキルケゴールの考え。

ここで有名な冒頭がやってきます。

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。 自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

こういう説明する気のない文章を平気で書くのが哲学の糞なところですね。この本は最初以外は、例え話も付け加えてくれる良心的なものですが、ここから少しの間は読者をなめていますね。本文ガン無視で解説していきますね。

例えば、うひょーさんという自己について考えてみます!
そもそも、自己っていうのは、いろんな要素の塊なんです。例えば、僕の場合天才と善人という要素が含まれています。さて、この二つの関係の名前はなんでしょうか?うひょーさん(自己)なのです。
ところがうひょーさんという関係は、人に認識されなければ存在しません。カントなんかもよく言いますけど、人が認識できないものは存在してないのと同じなのです。
認識する人はこの世に二種類しかありません。一つが自分、もう一つが他人です。
元々、天才かつ善人という自己をもっているうひょーさんが、これまでの反省をして、「あっ俺って天才でしかも善人じゃんwwwww」って認識することによって、初めて自己が具現化するわけです。
他人の場合はもっとわかりやすいですね。どれだけ僕が天才であっても、他の人が馬鹿だと言えば、自己は馬鹿になるわけです。
そしてうひょーくんとその自己は同一のものですから、自分が認識したとしてもそれは自己とは言えないのです。何かを認識するためには、その対象の外にいないといけないからです。
だから、自己とは他人の評価なのです。
では、絶望とは何か?自分が天才かつ善人だと思っているうひょーくん。ところが、自己は他人によって馬鹿かつ悪人だと決められてしまっています。この自分と他人の認識の違いこそが絶望なのです。
さて、絶望しているうひょーくんはどうにかしたい!そこで、思いつきます。
「お前ら何と言おうが、俺は天才で善人なんだ、黙ってろチンパン
そう、うひょーくんと自己の間の関係を突き通すパターンです。

もう長いので、一気に飛ばしていきます。
絶望していくうひょーくんなのですが、絶望している状況をどうにかしようとして、自分に籠ると、余計に他者の認識との違いが浮き彫りになって絶望してしまいます。無限ループですね。これが絶望の第一段階。
次に出てくるのが、神の存在を認識しているのに絶望している第二段階です。
今まで有限な他者の認識に苦しめられてきたのですが、神は無限です。他者の位置に神を置くことで、どんな自己でも自己として認められる、つまり絶望から解放されるのです。
ところが、うひょーくんは強情です。「神が全部OKって言ってくれてるって?うさんくせえな何言ってんだこいつ。さっさとしねや」
キルケゴールによれば、これは神という全知全能の存在が救い出してくれるのが、身に余る光栄すぎて、逆に反発心を覚えてしまうのと同じらしいです。
例えば、皆さん自分のことを想像してみてください。急にアラブの石油王がやってきて、10億やろう、と言われたら、身構えるでしょう?金をもらう代わりに何を差し出せというのだろうとか、思うでしょう?幸福すぎて逆に警戒しちゃうんですよ。これが、第二段階。
ちなみにこれが躓きというやつです。意味は自分で調べてね。キルゲゴールによれば、躓きは人間である以上、避けられないものなのです。なぜなら、神が救いの手を差し伸べるなんて、幸福すぎるからです。
だからこそ、信仰するのです。認識の外に出ていくような素晴らしいことなので、信じることしかできないのです。

皆さんキリスト教を信じましょう。あめーん。