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つまりそういうこと

クロード=レヴィストロース「野生の思考」 最終回 歴史的な思考と野生の思考

さて、三回にわたってごちゃごちゃしたいわゆる「未開人」の社会制度について語ってきましたが、まぁ何が言いたいのかというと、野生の思考=構造主義、なんですよ。
完全に歴史性を排除して、現在の自分の社会を、いろいろな記号を借りて細かく分類していく思考が野生の思考なんですが、これはまさに現在の社会の構造を分析していることに他ならないんです。
そして、この思考方法は現代の歴史と因果性から分析する思考方法に劣らない方法であり、人類の根本的な思考方法の再発見として、主張しているわけです。
歴史性の排除によって、当然、「進歩」する思考は止まってしまうという点は、これまで述べた中にもありました。
なので、レヴィストロースは今度は歴史的な思考方法の欠陥を指摘します。
歴史的思考というのは、例えばこういう事件が、社会的にこういう影響を後世に及ぼして、逆にこの事件は別の事件から影響を受けて・・・というように常に縦の思考によって考えられてきたんです。
ところが、ここに一つの問題があります。歴史の単位をどうするか?ということです。例えば、原始時代でいうと何千年、何万年という単位になります。フランス革命の時代でいえば、下手をすると何日単位まで細かくなりますし、産業革命という観点でいえば、何世紀という百年単位の話になります。その単位の決め方ってすごく恣意的だろ?っていう話です。
また、どこを注目するかってのもやっぱり問題がある。例えば、個人をとるか事件をとるかという話。事件をとれば、その時の社会を包括するようになっていくから、歴史的な影響を分析するのには役に立つんだけど、大雑把になりすぎて細かい原因が認識しづらくなる。どんな人間がどんな心理状況でとか、そういう細かい要素を無視するしかなくなる。
一方で、個人をとると影響が小さすぎて、歴史という長い目で見ると意味が小さくなって、一人を分析したなら、今度は全部のその他個人の精神を把握して、その連関を分析する話になって、しかもそれを全部時系列なんて絶対無理でしょ?
だから、最終的には時間の一本の線に、恣意的に事実を並べて組み合わせるしかなくなっちゃんです。

そうすると究極的には歴史を諦めて、その場の社会を野生の思考のような形で全部を細かくわける一方で、細かく分けた存在をこれまた無限のグループにわけて分析する、という方法か、この方法を諦めて、歴史として時系列のみにこだわるかという話になってくる。
そうすると、例えばフーコーみたいに王政時代の社会を細かく分類したモデルを作る一方で、近代社会を細かく分類したモデルを作って、比較するような中間的な方法が生まれてくる。
マルクスも資本主義前と資本主義後の社会を分析して比較してたし、結局のところ社会学的な分析は野生の思考を意識的に取り入れずにはうまくいかないのです。

これぞ構造主義なんです!!!!!!!!!!!!!!!!
今まで野蛮と思われてきた未開人の思考なしには、社会の分析はできないんです!マルクスの歴史的な側面ばかりを見て社会を考えてきた学問の風潮を一気に変えたのがこの著作というわけです。

終わり^^