うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

人生の反省

 通勤中、車内に鳴り響く「QUEEN」。もう何度も運転した道、前を走る車、信号が漠然と目に映る。特に何かを考えるでもなく、ハンドルを握る毎日。

 退屈のあまり車内で一人カラオケを決行するときもある。強引な車線変更や明らかにスピードの遅いトラックに腹を立てることもあったが、今やその感情も失われている。

 ただ漠然と職場への道を走っている。店の駐車場に着いても、出ていくのが億劫だから、ぼーっとスマホを眺めながら漫画を読む。途中のコンビニで何か食べ物を買うこともある・・・。

 社会人6年目になり、ようやく「生きる」と言うことを理解し始めた。

 と、思いつくぐらい、僕は濃い人生を送っていると思っている自惚れ癖がある。所々で小説の題材になるような出来事はあったが、週2日は家で引きこもっていて、特に交友関係を広げていない。

 この間に世の人々というのは、社会で交流を広め、所謂「社会常識」を構築している。人同士は出会い、連絡先を交換し、ショッピング、食事、旅行等々の約束をする。コロナ禍などは関係なく、人と接しているのだ。

 過去に小説家を志した時、あらゆる文学に足りないものは社会経験だと感じていた。設定や人物は妙に浮世離れしていて、その世界は明らかに空想であった。もしくは、作家個人の心のみが真実であり、周辺世界はやはり空想である。だから、社会人として働き、常識なるものを身につけようとしたわけだが、どうにも上手く行かぬ。

 恐らく凝り症という性格と、妙に先を見渡した気になる性格の問題である。今現在は社会生活を営むというより、仕事を極めようとしている。歪な仕事への拘りが評価され、出世してきたが、虚ろな心は変わらぬ。

 代わりに大量に身につけた学術的な教養は、日本においては一切役に立たず、一般的な教養はないので、強烈な孤独感が僕の周りを渦巻いている。

 6年経過しても、生きる意味がわからない。働くことを楽しもうとやってきたが、6年も経つと同じことを繰り返すので徐々に飽きてくる。

 どうにも人というものは、自分のためにのみ生きるだけでは時間が余るように出来ているらしい。もっと別の、何か大きなものが必要なのだ。3年間恋愛している間の人生は楽しかったし、生きている心地がしたが、その後今まではやはり生きる心地がしない。さりとて、恋愛は明らかな運要素であって、そもそも自分が相手を好きにならねば始まらぬ・・・。

 この世の人々は何を思って、どう生きているのかが知りたい・・・。退屈を上書きすべく、何か行動せねばならないが、果たして何をすればいいのだろうか・・・。

 とりあえず久しぶりにコソコソ小説でも書こうかと思ってワードをアマゾンで購入しました。

 おしまい。