うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

読書感想文 武者小路実篤「友情」

 どうも、僕です。

 今回は武者小路実篤の「友情」について書きます。ちなみにこの作品も新潮社ランキングトップ10です。「破戒」はどうしたの?と聞きたい方もいると思いますが、ちょっと待ってください!!!!!!正直エタだのヒニンだの(一発変換できない)は興味ないんです!今目の前にその人らが、身分打ち明けたとしても、それがどうした?って感じですからね。世間の人がどうかは知りませんが。

 

 さて、要約。

 野島君は超絶インキャの売れない作家。ある日、友人の仲田の妹である杉子に恋をします。あまりに好きすぎてたまらない野島。しかし、仲田は妹は嫁にやらん!と今まで求婚してきた相手を晒し上げたりする始末。それで誰にも相談できず悶々としていたのですが、とうとう昔からの友人大宮に打ち明けます。

 募る恋心。モテモテの杉子に近寄る男たち。早川というイケメンが擦り寄っている時は嫉妬で狂いそうな様子でした。そんな中、大宮と妹の武子は杉子に対して野島のすばらしさを一生懸命伝えます。ステマというやつです。

 努力の甲斐あって、杉子と徐々に打ち解けていきます。一方、大宮は杉子に対して冷たい態度を取ります。そりゃ友情ですからね、あんまり近寄られて、勘違いされても困りますからね。

 とにかく杉子との接触に一喜一憂する野島。大宮の方が魅力的で、嫉妬したりしますが、友情との板挟みでいろいろ悩みます。イケメンチャラ男の早川までやってきて、野島はもうどうしようもありません。

 そんな中、大宮は突如ヨーロッパ旅行を決断。見送りの際、野島は杉子が大宮を愛していることに気づいてしまします。

 やけくそになって求婚を申し込む野島。当然ふられる。本人にもう一度トライ。もちろんダメ。

 そんな中大宮から、手紙では言えないことを書いたから、雑誌を見てくれと言われます。

 それは大宮と杉子の手紙のやり取りでした。杉子は友情より私をとってくれとせがみます。大宮は最初の方、一生懸命断ります。すると杉子は野島のことを生理的に無理だ、大宮がいなかったら、早川と結婚していた、とか、絶対無理だ!などとぼろくそ叩きます。何回かやり取りが終わった後、本当は大宮も杉子のことが好きだったことを手紙で打ち明けます。

 なんだこれはああああああ!野島は大宮からのお土産であるベートーベンのマスクを地面にたたきつけて割り、発狂します。そして、インキャ小説家道を究めていくのです。孤独を感じながら。

 

 <感想>

 インキャにはつらい結末でしたね・・・。野島よりも大宮の方が小説家として成功していて、健康的な体をしていて、運動もできるんです。ちょくちょくでてきた早川も、イケメンでコミュ力高め、運動もできます。

 一方野島くんは、半分冗談で神の話をしている途中で、超絶早口で自分の考えを語ってしまうヤバイやつ。インキャにインキャを重ねたガイジなんです。そりゃ好かれません。

 大宮と野島の友情なんかありますけど、結構恋愛でぶちこわされるわけですね。どっかで見たことあるな?と思ったそこのあなた。そう、これは夏目漱石の得意分野なんです。「それから」はまさに友達の好きな女の子を主人公が奪うという展開でしたが、「友情」は奪われる側の苦しみを書いています。

 どっちかというと僕はインキャなので、「友情」の方がよくわかる。友情が大事な奪う側なんてのは、僕には全くわかりません。「こころ」くらいエゴ剥き出しな人間なんでね・・・。

 奪われる側、しかも友人に奪われるというのはなかなか来るものがあります。しかも、好きな子にぼろくそ叩き潰される野島くんの気持ち・・・。涙なしには読めない小説ですね。

 結局ね、人間エゴなんですよ。友情ってのはあくまでも理想的な概念でしかない。本当に恋愛という状況に置かれたら、概念は消え去るのみ。全てが消えた野島は完全な孤独のうちに沈みます。友情も恋人もない。もはや頼れるのは母のみ。この妙な孤独感は僕もよくわかります。人生なんか常に孤独なんだなぁってしみじみと感じましたね。

 終わり。

 

 

 

読書感想文 フランソワーズ・サガン「悲しみよ こんにちは」

 どうも、僕です。

 今回はフランソワーズ・サガンの「悲しみよ こんにちは」について書きます。

 新潮社累計売上高ランキングなるものがあって、そのトップ10に入っていたので、とりあえず読む。島崎藤村の「破戒」も読んでいるところだが、あまりに薄暗すぎて鬱になりそうなので、こちらを読んだ。が、これもなかなかえぐい。

    要約

 十七歳の女の子セシルは、父レイモンとバカンスに来ていた。父はヤリチンで、四十を過ぎてもやたらめったら女に手を出しまくっていた。今の愛人はエルザ。娘がいるのも構わず愛人といちゃつきまくっていた。セシルはもう慣れっこで、気にしていない。

  そんな中、昔からの知り合いであるアンヌがやってきて、エルザも含めた四人で共同生活を送り始める。父と同年代の彼女、歳をとってもまだ美しい彼女は、レイモンの心をわしづかみにし、ある時ついにエルザを捨てて、アンヌと関係をもってしまう。

 セシルがその尻ぬぐいをさせられた次の朝、二人は結婚すると宣言する。「マジかよぉ!?」とびっくりするも、歳が歳だし、仕方ないか、と思うセシル。幸せな日々が始まった。

 そんな中で、セシルはたまたま浜辺で出会ったシリルと恋仲となる。ちょくちょくあってはキスをする関係が続いていた。セシルも幸せになっていたのだ。

 もちろんそんなことが続くはずがない。アンヌは一家の母として動き始める。今まで自由人だったレイモンとセシルの生活が型にはまっていく。セシルはそれが耐えられなかった。勉強しろと言われても全く勉強せず、部屋を歩き回ったりと反抗期むき出し。ついにシリルとキスしているところを見つかり、会うのを禁止されてしまう。

 あ~不自由だ~辛い~・・・。この時からセシルはアンヌを追い出す作戦を考え始める。

 エルザとシリルに恋人の振りをさせ、父に見せつける。これによって、若さを失うことに耐えられないレイモンはもう一度エルザに手を出す。そしてアンヌは捨てられる。

 これが作戦だった。順調に進んでいく計画。父のことを知り尽くしたセシルだからこそできることだった。しかし、一方でアンヌの優しさに良心の呵責を感じ始めるセシル。アンヌは自分が会うのを禁止したせいで、セシルがシリルを取られてしまった、と思ったのだ。

 家庭はどうかというと、計画がばれないように模範的な人間を演じているので順風満帆だった。

 紆余曲折あって、ついに父がエルザの元に行った。しばらく、知らんぷりをして、タバコを吸っていると、セシルの目の前を凄まじい勢いでアンヌが駆け抜ける。

 大泣きしながら、車に乗り込み、家を去っていた。そう、不倫現場を目撃してしまったのだ。

 そのすぐ夜。アンヌに帰ってきてもらう作戦を父と二人で考えていた時のこと、アンヌが交通事故で死んだことを知る。

 今でも夏になると、ベッドの上でアンヌを思い出す。彼女は事故ではなく、自殺だったと良心の呵責に苛まれる。悲しみよこんにちは

 

という、話でした。

 十七歳という、純粋さに知恵がつき始める年ごろ、大人の一歩手前にある少女が、ちょっとした悪知恵で人を死に追いやってしまう話ですね。

 序盤の甘い恋愛と、放蕩父の更生となんだか綺麗に進んでいくなぁと思っていたら、自由奔放さが顔をだし、気に入らない奴は追い出してやろう!というエゴが顔を出し、追い出すだけのつもりが、死んじゃって、人生に闇を残す。あっ、そういう展開ね・・・。悲しみよこんにちはって感じでしたね。

 正直、こういう展開多すぎて深い感想はあんまりないけど、割と面白かったね。女心なるものが結構書かれてるけど、男にはあんまりわからん!というのが大きい。女性に読んでいただき、感想を書いてくれ、以上だ。

 

 

 

読書感想文 カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」

どうもこんばんは、僕です。

今回はカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」について書きます。この人の小説は既に三冊目!!

芥川賞ってハズレだらけだけど、ノーベル文学賞ってのは本当にハズレがない。村上春樹を読んで、現代小説はダメだと思ってたけど、このおじさん読むと大丈夫だなって思いますね。

 

要約

むかしむかし、あるところにブリトン人のおじいさんとおばあさんがいました。山の中を掘って作った村にふたりはすんでいました。おじいさんはアクセル、おばあさんはベアトリスという名前でした。

あるとき、ベアトリスが自分に息子がいたことに気づきます。アクセルにそういうと、「そういや、いたかもしれないねぇ」と言って、二人は旅に出ます。

この国に住んでいる人は皆、記憶をなくしているのです。数日前にあったことなど、なかったかのように過ごすのです。だから、二人は息子がなんとなくどこにいるかは知っているけども、どうして出て行ったのかを知らないのです。

二人が旅を始めていると、徐々に疲れてきて、近くにある屋敷で休憩しようとします。屋敷の中はボロボロで半分は崩れてしまって、雨が入ってきています。中には二人いて、壁の方を向いて立ち尽くす男と、兎をなぶり殺している老婆でした。

ベアトリスが老婆にどうしてそんなに残酷なことをするのか?と聞くと、男に対する復讐だというのです。老婆は夫婦である特別な島に行こうとしたことがありました。そこは、何の苦労もせずに生きられる楽園です。しかし、不思議なことに他人に絶対に会えなくなるのだそうですが、本当に愛し合っている二人だけは一緒に暮らせるというのです。

男はその島への船頭で、一人ずつしか乗せていけないから順番に連れていくと言って、夫を連れて行きました。その後老婆はずっと待っていたのですが、結局戻ってこず、夫婦は離れ離れになってしまったのです。

実はその時船頭は、ある質問をして試していました。二人が昔話をするとき、共通の思い出を語れば、愛し合っていると認めたのです。忘却の霧で記憶を失っていた老婆たちは当然ダメだったのです。

まぁなんやかんやで、次の場所に向かう二人。

ある村に着くと、今度は鬼が出たと大騒ぎ。子どもを連れ去っていったというのです。屈強なサクソン人の戦士ウィスタンが子ども救います。ところがこの子どもをどうしても殺さなければならないと、村中大騒ぎ、それで老夫婦二人と戦士とこの子どもエドウィンが四人で旅を始めます。

そうこうしているうちに円卓の騎士のガウェインに会います。彼は雌竜クエリグを倒すために何十年も作戦を練っているのでした。が、結構だらだらしていて気づけば老人になっています。なんだかんだで別れて次は教会へ。僧侶たちに会い、忘却の霧は実はクエリグが吐いていることを知ります。

この四人はなんだかんだで死にそうになりますが、ガウェインが助けたりうんうんで生き残ります。

ウィスタンとエドウィンは二人で竜を殺しに行こうとします。アクセルとベアトリスもたまたま子どもに頼まれて殺しに行きます。

ところがどっこい、ガウェインが邪魔をしに来ます。実はクエリグはアーサー王の命によって、マーリンが魔法をかけ、忘却の霧を生み出していたのです。ブリトン人がサクソン人を戦争によって虐殺した記憶を忘れさせ、新たな戦争が起こることを避けようとしたのです。一方、ウィスタンは忘却の霧を掻き消すことで、サクソン人が忘れていた憎悪を思い出させようとしてやってきました。全てはブリトン人の国を征服させるためです。

忘却の霧によって二つの民族が共存していた村で、憎悪が復活し、その時サクソン人の軍隊が来れば、一気に征服できると考えたからです。

まぁそんなわけで二人が決闘してガウェイン死んで云々・・・。

記憶の戻った老夫婦は最後にあの船頭に会います。質問をされて、二人とも連れて行くという船頭。しかし、先にベアトリスを連れて行ってしまい・・・。終わります。

 

感想

今回の話は軽いファンタジーだと思っていたのですが、意外とそうでもない。忘却の霧によって平和が維持されているというところが、一番のポイントですよね。

平和を考えた時、どうしても過去が邪魔するんです。日本みたいに今更アメリカに文句言ったりしない国は珍しいです。どこの国もやられたことをずっと覚えています。今でも東南アジアの国で日本人が大嫌いな人はたくさんいますし、ジャップの右翼さんたちは逆に朝鮮人大嫌いですし。黒人差別を受けて、白人大嫌いな黒人だっています。

じゃあ、全て忘れて手を取り合おう!ってことは相当難しい。実は最後霧が晴れた後、アクセルはベアトリスが不倫したことを思い出すのです。それでも妻を愛しているという結論に至ります。自分にとって苦々しい出来事を完全に忘れ去ることは魔法でしかできません。一方で、受け止めた上で前に進もうとすることは現実でもできます。カズオ・イシグロはそれを示したかったのではないでしょうか?

 

そういや、「わたしを離さないで」でも同じような話ありましたね。本当に愛し合っている二人なら、3年間の自由を得られるみたいな話。今回は島でした。カズオ・イシグロのもう一つのテーマとして、真実の愛も語っているんでしょうかね。この作品の最後の老夫婦が船頭に島に連れられて行くシーンも、途中でどっちともつかずに終わって、最後の判断は読者に委ねられています。おかげで、二人の不倫もあり、大喧嘩したせいで愛想をつかして息子が出て行ったりと、家庭崩壊した夫婦が、最後には愛し合ったという事実を、どう判断するかという問題をこちらに放り投げられています。

結果良ければすべてよし!とすることもできるでしょうし、家庭崩壊したんだからどうよwって人もいるんじゃないですかね。

 

まぁ何はともあれ、こりゃね、僕も納得しましたね。実は小学生の時、僕も人権作文で過去にあった事実をいつまでも伝えるから、差別を残している!忘れたらいいじゃん!なんて書いたことありました。当然入選しませんでしたがwwwwwwww

最近はカズオ・イシグロに近くなってますね。平和ってのは大変難しい。過去の話もあるし、じゃあ過去を忘れたら平和になるかっていうとそうでもない。黒人を見たとき、一瞬身構えるあの感覚、皆さんも経験したことがあるでしょう。人ってのは異質なものを見たとき必ず最初に拒否反応が起きる。過去の積み重ねによって、それを乗り越えている部分もあるのです。

ただ乗り越える過程で憎しみを生んで、結局平和にはなれない。こんなジレンマがあるわけですよ。

あぁ人類は前向きに全て忘れて生きていけるんですかねぇ。終わり。

 

 

 

 

 

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」(感想)

 もはやタイトルがおかしなことになっている。読書感想文(感想)とはこれ如何に?要約しきれず長くなってしまったので、要約二つと感想一つの三部構成となっちゃったね^^

 ということで感想。

 日本人の国民性を考える上で、この本は非常に深い洞察に満ち溢れている。
こういう話をよく聞いた事があるだろう。日本人はクリスマスを祝い、年末に寺へ除夜の鐘をつき、年初は神社でお参りをする。八百万の神までいて、田舎の山奥には土地神を祀った祠が置いてある。だから、宗教意識が非常に低い国民性であるという話だ。

 この本では日本人の宗教を「武士道」だと言っている。特定の神が存在するわけではないが、特定の死生観を形作り、行動規範を作っている点では宗教だ、というのだ。そして「武士道」は儒教、仏教、神道が自然に混ざりあい時間とともに形成されてきたのである。これには聖書やコーランのように文献がない。

 様々な宗教をベースにしつつ、様々な有名な武士の逸話が語り継がれることで、一つの規範を作り上げていったのである。だからこの本でも、逸話がたくさん紹介され、特徴が述べられる。

 その理由は平和だから、ということに尽きると思う。ヨーロッパ、中東、中国、インド、こうした国々は耐えず、様々な文化が衝突し、消え去る場合が多かったのである。だから文章にせざるを得なかったのだ。しかし、日本は戦乱の世になっても、結局は天皇中心だったのである。武士は敵であると同時に仲間であったのだ。語り継ぐだけで十分だったのだ。

 私は現代の日本に「武士道」は生き残っているだろうか?と考えてみた。あくまでも僕と、僕の周りの日本人という意味でしかないが、新渡戸稲造が列挙したものを一つ一つ述べていく。

 「義」や「仁」はあっても、「勇」は既に失われつつある気がする。より自己中心的になり、誰かのために!という思想はないだろう。とても些細なことで言えば、電車で席を譲っている人を見たことがないし、募金箱はいつもスカスカである。「武士道」の要求するようなものは既にないと思う。

 「礼」「誠」「名誉」はまだあると思う。しかし、「忠義」は失われつつあるのではないだろうか。「恥」の概念によって、日本人は強く縛られているのを感じる。「人前で恥ずかしい!」なんていう言葉は典型例である。それで、個人的な名誉のためにも、見知らぬ人が頼ってきた時は優しくすることもある。ただ「勇」が失われているために、自ら積極的にやることはないのだが。

「礼」の具体例は社会人なら嫌でもわかるだろう。細かく行動が規定されるのである。銀行のような古い組織では非常に窮屈である。と、愚痴を含めておく。

「誠」もまだ残っている。我々日本人は、どれだけ仕事が辛くても元気に振舞おうとする。
 一年くらい前のことである。私の職場の先輩が、店のある人のことを指して「あの人は辛い時に、ものすごく辛そうな顔するけど、俺はああいうのダサいと思うわ」と言った。まさに「誠」のかっこよさである。

 そして、この「ダサい」という言葉こそ、「名誉」に他ならない。体裁を強烈に意識する日本人ならではである。

 他にも例がある。東日本大震災の日にツイッターで黙祷するのを、偽善者だ!と批判する人がいる。あれは大袈裟にやっているから、嘘くさいということであり、まさしく「誠」である。私は遺憾の意をあえて示すことは、示さないよりマシだと思う。だが、やはり日本人だった。半分くらいは偽善者だと思う自分がいる。

 「忠義」は間違いなく、なくなったと言っていいだろう。敗戦によって天皇に対する忠義はなくなった。そして、代わりに会社への忠義が取って代わったわけだが、バブル崩壊という二度目の敗戦によって、消滅してしまった。家族に対する忠義は知らんが、長男が田舎にに帰って家を継ぐことを強制されることも少なくなってるから、そういう忠義も消えつつあるのだろう。

 高度経済成長の時代、バブルまでの時代は、まだ「武士道」はあったのだと思う。私の銀行には、心の底から会社に忠義を尽くし、誠をもってひたむきに努力し、誰もが気にしないようなところまで礼を尽くし、地域のために義と仁でもって貢献しようとする、そういう人間が本当にいる。これが日本人の「まじめ」の具体的な内訳だと思う。

 はっきり言って、私はついていけない。なぜ、ついていけないかと言えば、会社への忠誠心はないし、忠誠がないから誠でもって努力することないし、そういった人間を全く尊敬できないから礼を尽くそうと思わないし、地域より自分が大事だからである。そして、これらの事実に「恥」を感じることが全くない。

 そんなわけで、社会からは「武士道」は着々と失われつつあるのだと思う。しかし、中途半端に努力や考えを人に見せるのはダサいという考えが残っており、国際社会では遅れてしまっているのだ。ついでに自殺が多いのも、この考えのせいだろう。

 結局、日本人に残るのは名誉、つまり原動力としての恥だと思う。ところが、ネトウヨのように、名誉だけを振りかざし、他の要素は抜け落ちてしまったような人間が急増している状況を見ると、原動力にすらなっていない。誠がないから、じゃあ負けないように!っていう発想がないのだ。もはや日本は終わりである。 

 こんなわけで、武士道は日本の国民性を強く形どっていたわけだが、どんどん消滅している。僕が死ぬ頃には武士道なんてちゃんちゃらおかしいとか言われそうだ。

 私のひたむきに本を読む姿勢は、ある意味「武士道」なのかもしれない。少なくとも、新渡戸稲造はそう言っていた。もはや最後は愚痴になるのだが、僕が上司のことが大嫌いなのは、誠の欠如だということがよくわかった。

 何はともあれ、我々の国民性を形作る「武士道」、皆さんにはありますか?

 終わり。

 

 

 

 

 

 

 

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」後編(要約)

 どうも僕です。後編です。昨日は武士道を為す要素について述べました。

「誠」は言い損ねたことがありましてね、日本人にとっての誠実さっていうのは「僕は誠実です!」って大袈裟に騒いだりすることなく、ひたむきに内に隠して精進するっていう意味での誠実さなんですね。

 てことで続き。

 ここからは武士道が具体的にどういう行動をしてきたか、について語ります。

 武士の品性とは?博識ということではないのです。客観的事実をたくさん知っていることは問題ではないのです。

 じゃあ何を身につけるのか?儒学によって道徳を身につけたり、文学によって優雅さを身につけます。儒学は説明不要ですね、文学は辞世の句だったり、戦いの最中に歌の上手い返しをすると、すげえ人間性だぁ!殺すのは惜しい!って感じで命を見逃してもらえたりしました。

 他にも当然剣術や槍術、柔術があります。この柔術ってのが大事で、体のどこを抑えれば人が倒れるか、どういう仕組みで人が立っているのか、解剖せずに人体の仕組みを学んでいたんですね。もちろん、それが目的として示されるのは誠実さにかけるので、隠されてきましたが。

 そしてもう一つ、武士の品性といえば、損得勘定抜きってことですね。品性ってのは金のためにやるんじゃないですよ、自分を高めるためにやるんですよ。

 

 さて、次人に勝ち、己に打ち勝つために何をしたか?というやつです。まぁ単純に感情出す奴はださい!ってことですね。戦争に息子を送り出す親がばんざーいwwって言いまくったのはある意味武士道なんですよ。公の場で泣いて送り出したらそれは恥なんですよね。

 

 「切腹」野蛮な習慣ではなく、儀礼的な整然としたものだって言ってますね。処刑とは違うんですわ。あくまでもかっこよく死ぬってのが大事なんです

 だから、貧乏すぎて腹減って辛いからハラキリとか舐めたことはできない。そういう時は我慢しろってなります。

 逆にハラキリすべき時ってのは、親の仇、主君の仇討ちとか忠義の時ですね。その時はいかに平静を保って、感情を出さないか?というところがポイントだったり、後ろ向きに倒れるとダサいから、前に倒れるように袖を膝で抑えるとかやるんですよね。

 

 次は「刀」。まぁハラキリがこんなに神聖な儀式なんだから、そりゃ刀って大事だよね。刀鍛冶という行為自体も宗教的な厳しさがあるし、置いてある刀を跨いだら無礼千万ってことですね。

 

 はい次。女性の理想像。

 武士道ってのはそもそも男の道徳なんですよね。だけど、女性にも男性らしさを求めるのが武士道なんですね。女城主直虎が薙刀もって城を守ったりするあの逸話が残るのはまさに武士道ですわ。

 そしてこの女性ってのは、男の武士が国の主君に大して忠誠を誓うように、家の夫に対して忠誠を誓うんですね。だから懐刀を持っていて、レイプされそうになるとすぐ自殺するハラキリに似たことをします。

 男は外で、女は家で、というとまるで男尊女卑のように見えるけども、稲造に言わせれば、元々性差があるんだからそういうもんだろ、ということらしい。その根拠として、女性は家では全てのことを取り仕切っていて、実際の権力者なんですよね。

 また奥さんのことを愚妻などというけども、これは自分のことのように思っているから謙譲表現が使われるってことも述べてます。

 

 「大和魂

 武士道ってのが大衆の理想になったという話と、サクラが人気な理由について述べてます。なんでサクラが人気かというと、春にさっと咲いて、さっと散るその様子が誠実さを連想させるからだそうだ。

 

 最後武士道は甦るか?武士道の遺産から何を学ぶか?の二章。

 この本書かれたの明治時代なんですよ。急速な近代化で武士道って消えてる最中だったんですわ。それで、こんな二章が書かれてるんですね。

 稲造は日本が急速発展した理由を「名誉」にあると考えています。実利的に生活が豊かになるとか便利になれば、とかいう理由ではなく、欧米に馬鹿にされたままじゃ恥ずかしい、舐めんじゃねえぞっていう心意気が急速に日本を発展させたというのです。

 誰のための名誉かってのが大事で、主君のため、国のためなんですよね。だから、稲造は日本人ほど愛国心の強い国民はいないと言います。

 そしてものすごく愛国的で、人の言葉や態度に繊細な国民性が生まれた、というのです。こんな武士道は、名前が消えた後でも何かしらの形で残るだろう、と締めて終わります。

 

次回は感想いきます。

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」 前編

どうも、僕です。

今回は新渡戸稲造の「武士道」について書きます。

この本は1900年に書かれたもので、世界に向けて日本人とは何か?というものを説明する目的で書かれたものです。

当然初版は英語、その後日本語に翻訳されました。何せ世界に向けて書いたものなので、シェイクスピアや旧約・新約聖書ギリシアやローマの学者の名前がたくさん出てきます。それによって、日本の「ハラキリ」を代表とする「野蛮」とされた文化にも合理性があることを説明しようとしたのです。

そんな決死の努力の甲斐もあって、五千円札に載っていた時もありました。実際のところ、樋口一葉なんかより全然偉大ですね。

さて要約。

第一章は武士道とは何か?ということを外国人向けに説明しています。要は騎士道ってことですよ。

第二章は何から成り立つか?ということです。世界的にみるとキリスト教がその信念となっているわけですが、武士道は神道に仏教に儒教がぐちゃぐちゃになって、実践的な知識のみが組み合わさったものだというのです。稲造曰く、ソクラテスの「知行合一」と同じ原理だってさ!

ここから武士道を為す、様々な要素が列挙されていきます。

まずは「義」。不正なことや裏切りに対する抑止力としてサムライが持つ観念であり、忠臣蔵なんかはまさに義の話。そして、義が「正義の道理」たる「義理」として大衆に受け入れられ、道徳になっているっていう当たり前の話ですね。

「勇」。「義を見てせざるは勇なきなり。」ということで実際にやらなけりゃ意味ないってことですね。

さらに、自分が殺されかけてる状況で平静を装ったり、仇討ちして義を守り潔くいハラキリするのも「勇」なんですね。

ここから発達するのが「仁」。医者ではありません。要は「武士の情け」ってやつよ。武士という軍隊が中心なのに、一般の平民が普通に暮らしていた江戸時代が成立したのは、仁によって無暗に殺したりしないことが武士道だったからですね。

そんな中で、どんな相手でも対等に扱おうとする「礼」が生まれてくる。お前ら茶道やったことあるか?どれだけ歩くとか、どうやってお茶を受け取るとか細かく決められてるんだけど、これが礼儀作法ってやつだわな。稲造はこれを最も効率の良い無駄のない行動であり、他のことをする体力を蓄える方法だっていうんですね。そしてこの礼のためには嘘もつくという日本人の性格が出てきているわけです。

「誠」自分に正直に生きろってことですね。武士に二言はないとかですね、真っすぐに生きろってことです。日本人なら説明するまでもないですね。

そしてここから出てくるのが「名誉」

日本人特有の概念として恥があることを述べています。ある武士に農民が「服にのみついてますよw」と指摘したら、「恥かかせやがって!」ということで殺した逸話など、「恥」の概念によっていろいろな行動が成り立っていることを述べています。

当然こんな風にいちいちキレてたら切り捨てだけじゃ社会は成立しないわけなんですが、日本人のもう一つの恥として、短気は恥、我慢できないのは恥っていうのが出てくるわけですね。

更に正しい時期に正しく死ぬのが名誉なんです。なんでも腹切ればいいってもんじゃないんです。

じゃあいつ名誉のために戦うの?命を捨てるの?その基準は「忠義」となるわけ。赤穂浪士ですわなw

日本人は家庭の人間が馬鹿にされても、特にキレたりしません。それは日本人にとってはダサいのです。でもボスが馬鹿にされるとブチぎれる。これが忠義なんですね。

 

ということで、まず一回目のようやく終わります。

 

読書感想文「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

 どうも僕です。

 今回は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の感想文書きます。

 SFでは最高傑作ともいわれるこの作品、ブレードランナーとかいう映画の原作らしい。

 核戦争で核の灰が降りそそぐ地球が舞台。もはやほとんどの人類が核を避けて火星に移住している中でのお話。

 火星を住める星にするために労働用のロボット、アンドロイドが使われていたんですが、たまに主人である人間を殺して地球に逃げてくるのです。

 そんなアンドロイドを殺して懸賞金を稼ぐ、バウンティハンターのリック君が主人公です。特に成果もあげられずぶらぶらしていた矢先、新型アンドロイドを検査で識別しようとしていた同僚のデイヴくんがレーザー銃でぶち抜かれます。後を継ぐのがリック君。アンドロイドを片っ端からぶっ殺すことにします。

 最初はポロコフというアンドロイド。デイヴをぶち抜いた男です。まぁなんだかんだで殺します。

 次がオペラ歌手のアンドロイド。彼女の歌は最高に上手なのでリックは感動します。あぁ~殺すの嫌だなぁ~と思いつつも、アンドロイドと人間を区別するための検査をします。

 この検査は、人間の同情心をテストするもので、人の肉を食べますか?みたいな質問をに対する反応のスピードを見て区別するもの。ところがどっこいテストの途中でグルのアンドロイドに偽物の警察署までしょっぴかれてしまうのです。

 が、まぁ紆余曲折あってそこにいた人間のバウンティハンター、フィルと共謀してボスを殺し、脱出。そしてオペラ歌手はフィルが殺します。その時にリックは妙な違和感を覚えます。

 今まで道具としか思っていなかったアンドロイドを殺してしまったことに、罪悪感を覚えたのです。そして、フィルの躊躇のなさに違和感を感じ、アンドロイドかもしれない、と思います。今度は検査をフィルに実施するのですが、やはり人間でした。

 全く自分を信じられなくなったリックは、自分自身がアンドロイドじゃないかと思い、テストするのですが、やっぱり人間でした。

 そんな途中で放射能で脳みそがやられたピンボケと呼ばれる人間の一人であるイジドアの元に、リックが殺したアンドロイドの仲間たち3人が現れます。

 ようやく出来た仲間に感動して、アンドロイドと知っても、通報せずに匿います。

 この時代の人間は孤独に飢えていたのです。ウィルバー・マーサーという爺さんが石を投げつけられ、怪我をする体験を共有する共感ボックスなるものがあって、皆その機械を使うことで心の穴を埋めているのが普通の状態でした。

 大喜びのイジドアでしたが、アンドロイドは冷たい。紆余曲折あって、アンドロイドが蜘蛛の足を切ってなぶり殺しにする様に耐えられず、逃げだします。

 そんな時にリック君登場。実はこの男、ここに来る前にアンドロイドとセックスしてしまったのです。そして彼女と、今度殺すアンドロイドは同じ型で、俺にはもう無理だ!と追い詰められながらも、ここにやってきたのです。

 まぁなんだかんだで殺して、終わり。

 

というのがこの話です。

 

 正直ね、要約辛いね。頭使いたくないね、稟議でもう限界。

 この作品は、人間の最も基本的な核は、共感であるとしている気がします。蜘蛛のくだりもそうだし、アンドロイドに同情するリックもそう。ウィルバー・マーサーもそうです。

 アダムスミスは人間にはシンパシーを感じる基本的な能力がある、と言いましたが、この作品もそんな感じです。

 これは今の現代にこそ言えることだと思います。今まで知能指数の高さが人間の特権だったのですが、AIが出来た時点で、もはやそんなものはありません。ひらめきがある!判断ができる!と言いますが、これもやはりAIで、できてしまうでしょう。空気を読む、感情を読む、これもAIはできるようになります。新型AIBOは飼い主の表情を読み取って行動を変えるそうですからね。

 それでも残るのは、やはり共感ではないか?というのが作者の話なんですね。

 実は僕も同じような考えに至ったことがあります。ちょっと前、AIが小説を書いたというのがニュースになりました。その時僕は「あぁ、もう人間の時代はおわったんだな」と思ったものです。そのあと粛々とあれこれ考えたのですが、残るのは共感性だけだと思ったのです。

 小説は、その時代に生きる人たちに共感されるか、普遍的に共感されるものが名作となります。はたして、AIにそこまでできるだろうか?と考えました。なぜなら、AIは人間ではないから、その気持ちを体験することができない、と思ったのです。

 真似はできるかもしれないが、本当の意味で共感できるのか?と思ったものです。ただ、これも人間中心の思考から抜け出せない僕の想像力の弱さによるもので、100年後には普通にできている可能性もあります。

 それでも僕は信じたいものです。人間のやるべき仕事が全てなくなって、何もかも特殊性が失われてしまった後でも、共感性だけは人間のものであってほしいと。

終わり。