うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

堅あげポテト食レポ

どうもーうひょキンでーすwwwwww

今日は堅あげポテトわさびあじを食べまーすwwww

やる気がないので写真張りませ~~~~~んwwwwww

うーん、むしゃむしゃ・・・。ばりぼり・・・・。まずい!

とてもまずい!!!!!!!!!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwwwwww

当然ですよね、だって芋にわさびなんて組み合わせ食った事ねえよなぁ!?わさびってのはさぁ、刺身みたいに水分多めでさっぱりした料理につけるから、香りが鼻から通って清涼感を増していって、美味しいわけですよ。

ところが、じゃがいもという清涼感の欠片もない、タンパク質の味にワサビをつけると、どっちつかずで中途半端になってしまって、まずい。堅あげポテトの、じゃがいもの柔らかさを消していても、味がどうも合わない。

最後に一つだけ褒めておくと、わさびの味が強烈で香り自体は素晴らしい。実家の冷蔵庫で何カ月も眠っている味のないわさびとは大違いで、新鮮な風味が口の中に広がる。それによって余計にじゃがいもとのミスマッチが強調されてしまうのだがね。

TODAY'Sうひょキンズポイント!とぅるるるるるるるるるるるるるるっるるるるるるるるるるるうるるるるるるるr・・・・・。

ドン!1点!!!!!!!!!!

いやぁやっぱりまずいですね、わさびとポテトの組み合わせなんてありえないですよ、人間としてありえない。味覚障害ですね。開発大失敗してるね。

と、今日はここまで!

 

 

 

 

ではありません!!!!!!

次に食べるのが堅あげポテト、あさりバター味!!!

さっそく、実食!

うーん、むしゃむしゃ・・・。ばりぼり・・・・。こちらは割とうまいですねぇ。

堅あげポテトにあさりという組み合わせ、マッチしてないですが、互いに邪魔をしあうこともありません。堅あげポテトを主食にあさりを食べるような感覚ですね。バターによって若干味を調えようという努力があって、うまく共存しています。調和はしてません。

わさび同様、風味はすごい。本当に新鮮なあさりを食べているような出汁の味がします。お酒に合いそう。

普通にあさり食べたほうが美味しいんじゃないか?という疑問もありますが、あさりを自分で作って茹でたり焼いたりするの、手間がかかりますよね。手軽にあさりの味を食べたいという方はありかもしれません。

食感がバリバリなので、あさりのあの妙なみずみずしい、柔らかい食感がなくなっているのだけは問題かもしれませんが、酒飲んでたら関係ないですね。

場が温まってきたところで、TODAY'Sうひょキンズポイント!とぅるるるるるるるるるるるるるるっるるるるるるるるるるるうるるるるるるるr・・・・・。

30点!!!!!!!!!!

 

やっぱり、あさりそのまま食べたほうが美味しい。これに尽きる。このポテト美味しいんだけど、やっぱ本物でいいよね?っていう気持ちが拭い去れない。

と、今日はここまで!ばいばいにーwwwwwww

 

 

読書感想文 G・ガルシア・マルケス「百年の孤独」

どうもお久しぶりです。僕です。

同じような内容を繰り返すだけだったので書いていませんでした。皆さんも、少し飽きてきていたのではないでしょうか?

今回は僕のブログの本領、読書感想文でございます。はてなブログで初めて読んでいただいた読者の方々も、この記事を読むことで、まるで自分が読んだことがあるようにインテリぶって話していただきたい。

最初に言っておきますが、この作品で読書感想文を書こうとしたことを後悔している。ほとんど支離滅裂にしか見えないかもしれない。本は自分で読んでもらって、最後の<感想>のところだけ読んでもらうのがいいかもしれない。
さて、記念すべきはてなブログ最初の本は、G・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」です。

Gで略されていますが、本当は「ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディアガルシア・マルケス」という名前です。コロンビア出身のノーベル文学賞作家でございます。この長い名前は南米特有で、自分の血筋をひたすら表したりするせいで、文字数が増えてしまうのです。
そんな作者の人生を反映したのか、「百年の孤独」の舞台は南米を想像させる熱帯と、自然に囲まれた原住民のような登場人物がたくさん出てきます。

コロンビアのリオアチャにある村に、近親相姦が続いていた一族がいるのですが、ある時ついに豚の尻尾が生えた奇形児が生まれてしまいます。

そんな中、この話の最初の登場人物であるホセ・アルカディオ・ブエンディアと、ウルスラ・イグアランの二人の男女が恋に落ちます。今まで同様、二人も近い血縁関係なので、豚の尻尾が生まれてしまうのを恐れて、ウルスラは子作りを拒否します。おかげで、不仲のうわさが流れ、ある日、ホセ・アルカディオが、そのことを馬鹿にした友人を殺してしまいます。

殺した友人の亡霊がホセ・アルカディオを苦しめ続けるので、村を出て、新しい村である「マコンド」を建設し、ここを舞台に話が始まります。

この二人の間の子どもは豚の尻尾が生えず、普通に育ちましたが、ウルスラは近親相姦禁止の家訓を残します。

 

という話なのですが、この話をこれ以上要約することはできません。小説全体が、このホセ・アルカディオの一族を巡る事件を要約した内容になっているからです。

例えば、最初の二人から子どもが3人生まれ、一人が拾われ家族の一員になるのですが、みんなバラバラに人生を送ります。長男のホセ・アルカディオは飲んだくれ、女好き、冒険家です。弟のアウレリャノ・ブエンディアは反乱軍として32回戦って、負けるという伝説を残します。アマランタは恋した男たち全員死にます。拾われてきたレベーカは、最終的に夫をなくし、孤独のうちに死にます。これが四世代くらい続きます。全部書くと気が狂いそうになりますね。

全体的には現実と非現実が入り混じる内容となっています。ジプシーのメルキアデスという男が、ホセ・アルカディオの唯一の親友になるのですが、その男が空飛ぶ絨毯だったり、よくわからないけど治る薬を持ってきたりするのです。また、村全体が変な不眠症に取りつかれることがあれば、幽霊もたくさん出てきます。かと思えば、普通に電話だの電車だのが出てきますし、自由党と保守党なんか出てきて現実的な政治色が出てきます。

どっかの馬鹿が、これを素晴らしい技法だということで魔術的リアリズムなどと仰々しく名付けています。そんなこと言ったら、ハリーポッターでも異世界ラノベ魔術的リアリズムだがwww

 

やはりこの小説で一番衝撃的な話はアウレリャノ・ブエンディア大佐と、ホセ・アルカディオ・セグンド(ホセ・アルカディオの孫)の話でしょう。

アウレリャノ・ブエンディア大佐は当初、金細工をひたすら作り続けるだけの職人だったのですが、ある時を境に国内全土で名前を知られるほどの大物になります。ところが人生の最後に、自分が誰一人愛することなく、何かの思想を持つわけでもなく、孤独のうちに生きてきたことを悟り、ひっそりと死にます。ちなみに超有名人だったので、彼の作った金細工は記念品としてファンが買うくらいでした。

ホセ・アルカディオ・セグンドはマコンドがとんでもなく栄えてきた時代に生きた男です。その時代は、バナナ会社がやってきて、村に社員寮だの農村だのを作って町へと発展させていました。ところがこのバナナ会社がブラック企業で、ホセ・アルカディオ・セグンドが中心となって、ストライキを始めるのです。ストライキは三千人ほど集まり、次第に暴徒となっていき、バナナ会社を潰せるほどの大きな勢力になります。ところが、巧みなバナナ会社の罠によって全員機関銃で殺されて、海に投げ捨てられてしまうのです。

しかも、政府の発表によってその虐殺は隠され、皆平穏無事に家に帰ったということにされ、誰もその事実を信じないのです。

そんな波乱万丈な様々な出来事が起きる中で、物語の最後まで生きる男、アウレリャノ・バビロニアが現れます。その時にはマコンドは既にさびれていて、バナナ会社がいたときのような繁栄の面影すらありません。それどころか、アウレリャノ・ブエンディア大佐を覚えている人すらいません。

誰一人として覚えていないのです。そして、村から人がどんどんいなくなっていきます。外に出ていきます。アマランタ・バビロニアはどんどん孤独になっていき、最後には叔母に当たるアウレリャノ・ウルスラとの愛のみが残されます。その愛の末に生まれたのが豚の尻尾を持つ子どもです。もはや百年以上も前の話で、豚の尻尾の話を覚えているものもいませんでした。ウルスラは産後に体調を崩して死んでしまいます。そして子どももすぐに死んで、死体はアリの餌になります。

完全に孤独になったアウレリャノ・バビロニアは、最後にジプシーのメルキアデスが書き記した暗号のメモを解読します。

そこにはなんと、この小説でつづられていた話が全て書かれていたのです。

最後はこう締めくくられます。

「予言の先回りをして、自分が死ぬ日とその時の様子を調べるために、さらにページを飛ばした。しかし、最後の行に達するまでもなく、もはやこの部屋から出るときのないことを彼は知っていた。なぜならば、アウレリャノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだったからだ。また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機械を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。」

 

と、いうことで、これだけ読んでもさっぱり意味がわからない小説だったのではないでしょうか。要約が出来ないとはまさにこのことですね。

 

<感想>

この本では孤独と、忘却と、愛がしばしば出てきます。ホセ・アルカディオは最後ボケます。ウルスラもボケます。ずっと昔話を続けます。
アウレリャノ・ブエンディア大佐はレメディオスという女性と結婚しますが、すぐに死にます。彼女のことを思って、詩を書いたりしてたのですが、大佐は死ぬ間際に結局自分のことしか考えてなかったのだと悟ります。

飲んだくれと娼婦が最後の最後で、体を交えない愛情もあることを知ります。

アウレリャノ・バビロニアは、孤独と忘却にに襲われ続ける中で、アマランタとの愛に逃避します。

大佐のように有名になっても架空の人物になってしまいますし、バナナで繁栄を誇ったマコンドも地図から消えてしまいます。全て忘れ去られ、過去にも未来にもその存在が認識されることはなく、消え去ってしまいます。思えば、僕らの人生とはそういうものではないでしょうか?どれだけ一生懸命生きても、最後はこうなるのではないでしょうか?

世界史ではアレキサンダー大王が今でも覚えられています。でもそれより前、例えば原始時代の英雄など誰が覚えているでしょうか?何かそういう祖先がいただけで、その中の英雄だの一族だのはもはや存在しなかったものになっています。

更に広げましょう。今これほど発達している人類の社会も、結局人類が滅亡すれば記憶そのものが消滅し、元々なかったものと変わらなくなります。

そういう意味では我々は孤独なのです。忘却され、今生きているという事実はいつか忘れ去られ、確実に消え去ります。覚えているのは誰なんでしょうか?自分自身でしょうか?無が私たちを包んでいるのです。その究極の孤独の中でこそ、愛が輝くのです。バタイユは「エロティシズム」という本で、人間は根源的に孤独であり、エロティシズムのみが孤独をごまかすことができることを示しました。

孤独であるからこそ愛は強烈になるのです。友達だとか知り合いだとかではだめなのです。メンヘラチックですが、やはりそういう結論にならざるを得ないと思います。

百年以上の出来事をたった470ページで語りつくすことによって、一層忘却と孤独と愛が強く感じられる、そんな作品になっています。

是非一度皆さん読んでみてはいかかでしょうか?

終わり。

 

 

 

 

 

量子コンピューターなんてのがあるらしい

最近、僕は量子コンピューターを理解しているところである。

普通のコンピューターでは0と1の組み合わせでデータを作るので2の桁数分乗の試行回数が必要だ。

しかしどうやら、量子コンピューターは違うらしい。量子は観測する前は確率的に0でも1でも両方の状態でありうるために、さっき2の桁数乗していた試行が、最もうまくいって一回で終わるらしい。

それぞれの桁が0でも1でもありうるので、並べたその一瞬で全ての場合でもありうるのだ。ちなみに宇宙の生まれた状態も、こうして全ての場合でもありうるという考え方の下で計算することが出来るらしい!それをするには人間が生きていられないかもしれないらしいが!

 

話を戻すと、この無限の可能性をとりうることには問題がある。それは、いくらどの可能性でもありうるとはいえ、観測した瞬間には0か1かに決まってしまうのだ。

何かの答えを見つけている時に、観測した瞬間に正しい答えとなるのは結局は運任せになってしまうわけだ。この運ゲーを如何に絞っていく仕組みを作るかというのが量子コンピューターの真髄らしい。

つまり、何かを量子コンピューターで計算したい場合、まずその計算方法を考えなけれなならないのである!これだけ面倒だと、一般人が量子コンピューターを使うことはあまりないかもしれない。

最も役に立つ利用方法は、ものすごく大きな数の因数分解らしい。普通に計算すると膨大な時間がかかるが、量子コンピューターによる計算方法が確立されれば一気に簡単になるそうだ。

因数分解は総当たりなので、従来のコンピューターが運良く答えに当たるためには、とりうる値の総数の半分くらいは試行しなければならない。だが、量子コンピューターなら、n個総数があれば√n回でいいそうだ。

なかなかすごいことだねぇ、で、何の役に立つんだい?わかんないねぇ!?

暗号は因数分解を使ってたりするらしいから世界が困るとの噂もあるけど、実際のところどうなんでしょうね。

AIが量子コンピューターを使いこなして何か変わるもんなんですかね。

 

世の中の最先端ってのは本当に摩訶不思議でございます。

 

終わり。

 

心臓がバクバクする

バクバクバクバクする震える・・・・

心配で仕方がない・・・震える・・・ぶぶるぶるるぶるぶうるるるるr

ううああああああああああああああああああ

バクバクバクバクドキドキドキドキ・・・・胸が苦しい・・・

 

この心臓バクバク病をどうにかしていただきたい。しかし不思議なことに、心臓バクバクすると逆に気分は楽になる。意識が心臓に集中するから、精神的な面を忘れられるのだ。

過呼吸で倒れたせいか、ストレスがたまると息が荒くなる。しかし、多少の息苦しさは逆に深呼吸になって、妙に落ち着くのである。

なんだか社会人になってから人が怖くなってしまった。誰と話すときも、声のトーンだの、表情の微妙な動きだのを気にするようになった。それだけなら気の遣えるいい奴になれただろう。だが、もはや恐怖のあまり言葉が出せないのである。職場の人と話すのが本当に辛い。

苦しい・・・ひたすら心臓が苦しい・・・

 

一人暮らしの思い出

 僕は大学に進学するときに上京して、一人暮らしをしていました。上京の喜びよりも、圧倒的自由に感動したものです。大学生活も、東京もどうでもよくて、とにかく実家から出て自由に暮らしたかったんです。

 最初の一週間はネットもなく、両親が無暗に買ったオンボロ低スぺPCだけで、日々退屈していました。とりあえずスマホを使って、スカイプで友達と誰にも邪魔されず通話したのを覚えています。

 それから料理を少し始めました。最初はただの炒め物でしたが、オリーブオイルを使ってイタリア料理を作ろうなどというシャレたことを考えだしたのです。結局、イタリア料理でオリーブオイルを使うとなると、材料が高すぎて、ペペロンチーノしか作れませんでした。

 作り方は簡単。唐辛子とニンニクをオリーブオイルで炒めて、ソースの元を作ります。ある程度炒め終わったら、塩いれたお湯をかけてオリーブオイルと乳化させ、あとはパスタを突っ込んで絡めるだけ。

 これが意外と難しい。強い味は塩だけ。残りは唐辛子、にんにく、オリーブオイルと、多少風味は出すものの、メインとはなりえない味なんです。塩のさじ加減で、しょっぱくなりすぎたり、薄すぎてただの茹でたパスタになったりすることもあります。適量ってのは、本当に難しいんだよあんたたち。普段の料理ってのは調味料を重ねてるから、多少間違えても全体として誤魔化せるけど、塩だけってのはヘビィなのよ。

 唐辛子も結構難しい。一本炒めるだけでも十分辛すぎるくらいになる。半分だと微妙に辛さが足りない。必要量が少なすぎて、調節が本当に難しいんです。

 そんな私の一人暮らし、途中からめんどくさくなって料理をやめてしまいました。牛丼を食べに外に出て行って、後は家でネトゲするだけの毎日。徐々に人と話すことまで面倒になって、最初に入ったサークルは完全に幽霊になりました。一応、飲み会とかも行ったのだから褒めてもらいたいね。

 一人暮らしの恐ろしいところは、自己中心的になるところです。今まではなんとなく、社会集団との軋轢を受けながらも、そんなに気にせずに生きてきたわけです。女社会のドロドロとした軋轢だって、受け流せました。ところがどっこい、一度一人を経験してしまうと、全く耐えられなくなります。僕が夏目漱石に共感できるようになったのは、一人暮らしにあると思います。

 全くの一人暮らしになると、個性的だと自称しつつも、集団で歩いている人のことがハリボテに見えてくるのです。よく老人になると我儘になると言いますが、社会から離れたことで、自我が戻ってきたせいだと思っています。

 あぁ、僕はどうしてあんなに面倒なことをしていたのだろう、と思います。孤独は寂しい、などと言う人がいますが、実際に孤独になってみれば、こっちのほうが快適だということに気づくでしょう。それに、現代にはネットがあります。どうしても寂しくなれば、一度きりの声だけの出会いも可能なのです。四六時中誰かと話している必要がないのは皆さんもわかっていただけるでしょう。情報社会は人に最も快適な孤独を提供するのだと思います。

 洗濯は一週間に一度、まとめてやっていました。二階に住んでいたのですが、強風でパンツが下の階の庭に落ちている時が多々ありました。下の階の部屋には誰も住んでいません。それで柵を自力で乗り越えて、パンツを拾いに行くのですが、下着泥棒になったような気分でした。こんな気分は真っ平ごめんです。数カ月もすれば、常に部屋干しする人間になりましたが、部屋の男臭さが混じって洗濯したのにくさかったかもしれません。一人なので全く気になりませんでしたが。

 掃除は最初の方だけやりました。途中からやらなくなったのは、掃除機が安物すぎて全く吸わなくなってしまったからです。両親が買ってくれたのですが、いくら貧乏とはいえ、もう少しいいものが欲しかったです。吸わないからやっても意味がない、となって、結局半年に一度友達が来るまで全く掃除をしませんでした。

 大学四年生の時の彼女は僕の部屋を掃除してくれました。その時冷蔵庫のしたからよくわからない幼虫が出てきた時は、さすがに反省しました。僕は知らないふりをして、彼女に処理させたのですが、今思えばとんでもないヒモ野郎ですね。ラーメンとかも奢ってもらったことあります。ヒモにヒモを重ねていたので、振られて当然ですね。

 そんな一人暮らしにおいて、唯一の苦痛は貧困でした。僕は本当に怠け者なので、上京してからもバイトをしませんでした。しかも、お年玉貯金は1カ月で使い果たす放蕩っぷり。一番の出費はハイスペックPCにすることでしたが、他にもほとんど使わない遊戯王カードを買ったり、ゲームに課金したりとめちゃくちゃやっていました。PC以外は相当な無駄遣いだったと思います。

 気づけば僕の貯金は0になり、毎月の収入源は奨学金の七万三千円だけでした。光熱費が一万で、家賃が五万、残り一万でやりくりするようになりました。よくテレビで一カ月一万円生活なんてやってますが、あんなのは大嘘です。実際にやってみればわかりますが、一万円では普通の生活なんてできません。割と美味しいご飯を作って食べてるようにみえますが、あんなの嘘です。編集でコロコロ料理が変わるせいです。現実は、毎日同じご飯の使いまわしになって、そのうちゴミに見えてきます。

 それから半年たった八月の僕はもはや限界でした。毎日同じご飯を食べすぎて、気が狂いそうになってしまい、七月に入った奨学金を外食で一気に使ってしまったのです。しかも貧しすぎて、顔から不幸がにじみ出ていて、バイトの面接に受かりません。そうして、ずるずると八月の実家に帰る一週間前、私の現金はたった五百円だけ。一週間過ごす方策が全く思いつかず途方にくれていました。

 結局私は、スーパーで卵を買ってきました。10個入りで160円くらいです。これを毎日一個ずつ三食食べる。これで一週間持つ上におつりまででる計算です。

 と、いうことで始めたのですが、一日三食もいらない気がしてきました。妙な節約熱に駆られた僕は、毎日卵一つで生活することにしたのです。

 毎日玉子一つ茹でて食べては、PCにむかって、夜は寝る。修行僧のような生活を僕は続けました。最初の二日は空腹感で眠れないこともありましたが、三日すると慣れてきてむしろ寝る時間が増えました。冬眠でもしようというのでしょうか。

 五日目の朝、目が覚め、立ち上がろうとしたとき、ふいによろけて壁に手をつきました。栄養不足で立つことすら困難になっていたのです。頭の中がぐるぐるかき回されるような感覚に襲われ、目の前を真っすぐみることもできません。ふらふらしながら、ついに私は余った切り札である340円を手に松屋にかけこみました。

 あれほどおいしい牛丼を食べたことはありません。生の味でした。生きることを感じたのです。あとで実家に帰ったときにあまりにげっそりしていて心配されたくらいでしたから、死にかけていたのだと思います。九死に一生を得た牛丼の味は筆舌に尽くしがたいものでした。

 と、ここまで絶望的なまでに苦しかった僕の一人暮らし、バイトに受かってからは、なんだかんだで自由に楽しくやれたし、最終的にはいい思い出しかない。一年ごとに掃除してくれた僕の友達と、高校の部活の後輩、元カノ、ありがとう。一緒に滝修行にいってくれたネトゲの友達、ありがとう。感謝の気持ちを伝えて上手く締めようと思ったけど、そもそも孤独の自由を謳歌しすぎて、感謝する相手がほとんどいない^^;;;

 これくらい自由にさっさと死ぬ方がよっぽど人生はいいかもしれませんね、終わり。

海外旅行その1

 真っ赤に輝く日がわずかに傾き始め、私たちの顔を照らす。もう六時を過ぎたというのに沈まない太陽が、この地を常夏にしている。腐ったパーム油が、太陽に蒸されて強烈なにおいを漂わせている。吸えば、体中が油の靄に汚染されたような気分になり、反射的に嗚咽する。

 駅のホームに日本人三人は立っていた。ちょうど到着した電車は混雑のあまり乗れず、次の電車を待っているところだ。私が「また入れんかったら困るから、少しでも空いてそうな先頭に行こう」と提案し、ホームの奥の方まで歩いて行った。

 旅行用のリュックを前に抱え、その間に小さなカバンを挟んだ妙な格好で歩く。いかにも日本人といった風貌だ。鉄道オタクの友達は線路をじっくり眺めている。私には素晴らしさがさっぱりわからない。

 すると、いきなり警備員が英語で私たちに話しかけてきた。友達曰く「女性専用車両だから、あっちいけ」と言われたらしい。日本と違って厳しいようだ。

 鉄道オタクの彼はこの旅行を計画した中心だった。過去にもフィリピンに来ていて、風俗嬢と仲良くするために英語とタガログ語を勉強しているそうだ。京大卒だから頭はいいのだが、いい感じに使う方向を間違えている男である。

 待ち時間の間、私はホームから見える外の景色を見ていた。遠くには高層ビルが立ち並んでいる。地震がないから、日本のそれより高い。東京にも負けず劣らずの摩天楼である。

   視線を下にやると、廃材を集めて雨を凌ぐだけの家が立ち並んでいる。道に人が寝ている。ボロ小屋の一つは飲食店らしい。ハエにたかられながら、ドロドロのフルーツジュースのようなものを食べていた。富と貧が隣り合わせになる異様な光景は、この国の日常であった。

 ホームは新しいはずなのだが、小汚かった。何よりくさい。友達曰く、フィリピンの鉄道は日本が輸出したらしい。どれだけしっかり作っても掃除する習慣がなければ、こんなものである。

 もう僕たち三人の他にも人が並び始めていた。この国では列に並ぶ習慣はない。なんとなく入り口付近に人が集まって待っているのだ。

 電子板に電車の到着時刻が表示されるのは日本だけだ。この国にはそんなものはない。だから私たちにとって、待ち時間は非常に長く感じられた。非常に疲れていたので私は無言だったが、友達が急ににやにやしながら、

 「うひょーも今夜はまた楽しむやろ?」

 と言い始めた。もちろん夜とはそういうことである。昨日の夜は楽しんだ。まともに言葉が通じなかったが、友達の通訳でうまくバーファインできた。私は夜のお金を考えて、鞄から財布を取り出し、何ペソあるか数えた。

 「とりあえず、向こう着いたら両替しようか」

 と遠回しに賛同の意を示した。当初は全然期待していなかった。ネットで画像を調べると、化粧が濃いだけのおばさんがたくさん出てきたからだ。

 しかし、私は当たりを引いた。小さい顔に大きな黒目で、化粧もしない純朴さがあった。大変可愛い。酔った勢いで「ユーアーソーキュート」と連呼し続けた。大学生で20歳とのことだった。手慣れた風俗嬢というよりは素人で、反応も初々しく興奮した。俗に言う名器で、普段は遅い僕も結構早く終わってしまった。

 外国人のセックス用語は結構面白い。例えば、まんこを指して、「Eat」と言ってくる。当然私はEatしたわけだが、最終日に風邪を引いた。あわびの食中毒にかかってしまったようだ。Dog Styleもちゃんとしたが、あれは難しすぎる。とにかく抜けてしまうので、すぐにやめた。

   本番はできたが、キスはできなかった。彼女が歯の矯正をしていたからである。相当費用がかかっただろう。意外と育ちがいいのではないか、とも考えた。立ち振る舞いは風俗嬢特有の野蛮さがなく、妙に品があった気もするからだ。

   と、まぁ大変有意義な夜を過ごした私であったが、とにかく疲れていた。腕が重い、足が重い、瞼が重い。もう今日はやる気を失っていたから、力なく作り笑いで返した。「もうそろそろ来るやろ」と何度も繰り返しながら、立ち尽くしていた。

   「あっ、来た!」

    友達が電車の方を指差した。ガタンゴトン。地鳴りを上げながら、その姿を現した。先頭車両はあまり混んでいなかった。

    「今度は余裕で入れそうやな!」

  と私が言った矢先、そこが女性専用車だと言うことに気づく。

    落胆しながら、止まるのを待っていると、袋詰めされた人間ソーセージが眼前に現れた。三人は今度こそ乗ってやるぞ、と息巻き、全力で突撃した。フィリピン人が先に入ろうと横から突っ込んできて、私は押し出されかけた。「東京で鍛えられたガードスキルをなめるなよ」と心中で叫ぶと、その妙なプライドで男を突き飛ばし、我先にと突っ込んだ。

 ブロックを撥ね退けて友達と団子になってタックルを決める。が、びくともしない。人口密度が高すぎて中に押し入ることすら許されない圧倒的な人間の壁。重い台車を押すように前傾姿勢になり、腰をいれ、体重で押し通る。

 押したおかげで前の二人は入れたが、もう限界。私は奥に行けない。友達二人は既に中に入っているのを見て、体に余計に力が入る。もうダメかもしれない。そう思った矢先、私は後ろから押された。別のフィリピン人が乗ろうとして私たちを押し込んだのである。潰されて体中が痛かったが、なんとかなりそうだった。

 押したフィリピン人の一人は、ドアの上の出っ張りを掴んで耐えたが、もう二人は入れずに、無情にもドアが閉まった。可哀想に・・・。サンキューフィリピーナ・・・。

 車内はフィリピン臭が立ち込めていた。妙に甘ったるい南国の果実の匂いだ。彼らは毎日食べる習慣があるのか、体臭まで甘ったるい。それどころか、フィリピン風雑炊も、カレーも、チキンも全てにフルーツの隠し味がついている。たぶんマンゴーだ。匂いも味もマンゴー。ちなみに日本人は醤油の匂いがするらしい。醤油とマンゴーが同じ立ち位置にあるのは全く理解できないが、異文化とはそういうものらしい。

 

  

 

世界の今後が楽しみな今日この頃

おはようございます、僕です。

ホーキング死にましたね。

皆さんホーキング知ってますか?「ホーキング、宇宙を語る」っていう本を書いたことで有名な物理学者ですね。

ALSっていう筋肉が動かなくなる病気にかかって、車椅子になり、言葉も話さなくなり、最新の技術で意思疎通を取っていた世界的に有名な学者です。

ニュースにもなったし、日経新聞でも大々的に取り上げられ、社説も当然ホーキング。

宇宙開発を志す人は間違いなく彼の本を読んでいる。テスラのイーロンマスクも、ホリエモンも。

と、なんでこんなことを書いたのかというと、僕の唯一の人生の後悔は早くホーキングの本を読まなかったことだからです。

「ホーキング、宇宙を語る」を読んだのが、半年前のこと、ワクワクしながら宇宙について考えたのである。もし子どもの時に読んでいたら、職業が変わっていたかもしれない、と本当に心から思った本である。

昔から壮大なことが大好きで、宇宙みたいなのは特に大好きですよ。

相対性理論からひも理論まで物理学=天文学といっても過言じゃないとかいうのは興奮する。

2020年にはテスラが宇宙旅行を可能にするらしいけど、こういうことをきくと、俺は人生が楽しみで仕方ない。

今まで何の刺激もなく、イノベーションもない世界だったが、現在はぐるぐる変わっている。ビットコインは、貨幣のもつ弊害を帳消しにするかもしれない。AIは人を知識の端っこに追いやるかもしれない。宇宙開発が進めばもはや人類は地球人じゃなくなるかもしれない。IPS細胞は人類最後の夢、不老不死を叶えるかもしれない。全てが進歩した時、限りある資源(人間も含む)は限りない資源になるだろう。そうなった時、資本主義はどうなるか?社会の文化はどうなるだろうか?もはや我々は社会集団を構成する必要がなくなるのでは?人間味などという言葉は時代遅れになるのか?恋愛は今ほど輝きを持たないのでは?

大変ワクワクするのである。

数をかけと言われたので書いた。もう眠いです。終わり。