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つまりそういうこと

読書感想文 ミシェル・フーコー「言葉と物」

どうも、僕です。

今回はミシェル・フーコーの「言葉と物」について語ります。

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くそ難しい本です。あらゆる学説を一気にまとめるという荒業を為したのがこの本。「知」がどのような構造をもって変化してきたか、ということについて述べているのがこの本です。どのように人間の思考の型が変わってきたかという本。知の構造=エピステーメーです。

長いから感想だけ読んでもいいぞ^^

では要約。

最初のベラスケスの侍女の話飛ばす^^。
まずルネサンス。その時代の知は、世界の全ての物が似ているということを見つけることに執心している。
トリカブトが目の形に似ているから目薬になっていることでもわかるように、とにかく相似関係を見つけるのだ。
この似ているという事実を見つけるために、人は目に見える表象に対して記号を作り出す。トリカブトが目に似ているとかもそうだし、宗教画におけるモチーフなるもの、イスカリテオのユダがお金を持っているといった記号が常に発見されるのである。そして、人の話す言語も記号の一つであり、大昔は一つの言語であり、その残滓としての現在の言語から、様々な解釈(相似)を施す。そしてその解釈の上にもさらに解釈が連なる。こうして永遠と相似が続いていくわけだが、その絶え間ない相似関係が最終的に全てに似ている神を想定させる。この横への関係に対して、人間を小宇宙として、天体を大宇宙、そして更にそれを包括する存在としての神へ進んでいく縦の相似関係がある。相似の対象となる平面世界の違いにおける縦の関係である。

次に古典主義時代がやってくる。この時代の言語はルネサンスの無限の注釈をつける役割を捨て、ただ目に見える表象と完全に一体化する。そして相似ではなくてその表象の相違を見つける作業が始まる。

例えば言語学では、より正確に言葉の意味を規定する方法や、その言葉を合体させて意味を持たせる文法が分析されるようになる。そして、言葉と表象がくっつくことによって、文章の構成そのものが意味を持つ。文法すら意味を持つのである。

こうして二つの種類のアプローチが出現する。一つは言葉そのものの発生理論。

最初の人類が、例えばびっくりしてあっ!と言ったような原初的な音節の根本的な指示作用からから、驚きや驚く対象や、驚いた状況や、驚いた表情へと多種多様に言語が展開していく転移の作用が問題となっていく。よく漢字の成り立ちが、人のどういう動作に似ているからこうなっているとか、そういうやつが発生理論。インターネットがネットになったり、グーグルがググるになったり、そうやって変化していくのが転移作用。究極的にはこうしたズレの完成形としての一般的な言語表が出来上がる。中国語や英語といった言語の壁はこうして最終的には一つのグラデーションの中に組み込まれるのである。

一方で、命題と分節化の理論が生まれる。○○であるという命題の根底にある一般文法の問題が生まれる。言葉によって語られる順番によって時間が生まれるわけだが、一般文法は最も正確に表象を記号づける語順等を発見しようとする。それに伴って、その語順の分節化が行われ、それは全ての命題を名詞に分けたとしても○○であるという基本的な概念にたどり着く。なぜなら表象と言葉は一致しているから、全ての名詞は暗に「である」を根底に置くものだと規定せざるを得ないからだ。

 

これが自然に適用されると博物学となり、分類方法に二つのアプローチが取られる。
全く無作為に選んだ二つの表象の間の一つの特徴に関する相違点を発見し、その発見から無限に違いを発見していく方法。

もう一方は表象一般を一定の型にはめ込む構造と、その構造の細分化に伴って生まれる正確な名前の分析。つまり、○○科というような区切りをひたすら作り、その網目を徐々に狭くしていくことでそれぞれを分類していく。

これも最終的には自然存在の表が出来上がる。無機物から人間そして神へと続くグラデーションが出来る。ここでの進化論は現代の進化論ではない。あくまでもこの表が基本であって、現在目に見える自然の中で欠けている形態はまだ存在してないか、天変地異などで絶滅したか、といった理由が考えられ、そこに時間の存在が補助的に生み出される。だから進化論というよりはより複雑な存在が神によって作られた計画が、どこまでできているかどうか、人間という複雑な存在になっていくが、それは進化ではなく全てが横並びに存在しているのである。

 

次は富の分析。経済学である。

上の二つのように今度は貨幣から出発して、様々な富へと分析が進んでいく。つまり、何か価値の基準となるものが自然発生的に生まれ、そこを中心としてそれぞれの価値が位置付けられる。だからグレシャムの悪貨は良貨を駆逐するなどという言葉が出てくる。つまり、貨幣そのものにも商品性を認めるのである。なぜならそれはたまたま有用だったからに過ぎないからだ。

もう一つが価値をもつという命題と交換の理論。

重農主義では自然そのものが価値を持つとされる。そこで掘り起こした無限のもののうち、必要な生活費が捻出され、余ったものが交換へと回される。もう一方の効用主義者によれば、交換されるという事実から出発し、交換されるということは価値がある。そして、その価値が分節化されるのである。

交換されるという命題と、価値を持つという動詞の理論が構築されたわけである。

こうして、指示、転移、命題、分節化の四つの点から生まれるエピステーメーの配置が明らかにされるわけ。

 

さて、こんな風に表象と言語が一致していて、それに基づいて考えが構築されていた時代が徐々に変わっていく。

経済学ではアダムスミスから、マルクスリカードへと移動する。これは今まで交換という事実において価値を見出していたのを全て労働に帰結させる。労働によって価値が生まれるのであって、交換することによって価値が生まれるわけではないというのである。アダムスミスはこうして労働に着目した点において近代経済学の父なのだ。目に見えて実際の表象である交換から、実際には目にも見えない、そもそも交換の際に意識しているはずもない労働に基準が移動するのである。

そこから、生産という概念の導入される。それまでは数量に限界のある貨幣との限界の中で価値を変化させた商品は、労働生産性へと転移させられる。そうすると、労働生産性は個々の企業という独立した因果的な系列の比較という形を伴って価値を生み出すことになる。古典主義では全ての表象が互いに連接しあい、相互に価値を決めていたのに対して、近代では全く独立した生産の一系列の比較として現れるのである。必然的に表れた時間と因果系列は最終的にリカードの定常状態や、マルクスの革命による終末論を生み出す。

 

生物学は解剖学へと変化する。古典主義時代では表象と言語が結びついていたから、分類することが重要だったが、近代ではそれは脇に追いやられ、目に見えぬ組織の理解へと変化する。例えば、人は口からものを食べて、のどをとおって胃、小腸、大腸を通って栄養を吸収しつつ、うんこを出す。この関係性は目には現れない。そうしてまず一番最初に現れる変化は、無機物と有機物の分類である。古典主義時代では石も人も同じ場所に位置付けられていたが、もはや食事をしない時点で全く別の存在となるのだ。また、血液の関係で脊椎動物無脊椎動物が分けられ、植物と人が分けられる。全く別の因果系列をもつ存在として規定される。そして、その組織から生命という目に見えない包括的な概念が誕生する。それによって生命とその存在条件である諸表象の連接が問題となり、死という有限性や生殖による因果系列の連続といった時間の概念が導入されていく。 そうした概念が導入されることによって今度こそ本当の進化論も生まれる。つまり元々あった表に基づいて出たり消えたりする存在形態ではなく、生命の過程における部位の変化としての進化論である。表が先か生命が先かへと変化する。

 

次に言語学は原初的な叫びから様々な言語へ枝分かれしたという発想から、ここの言語文化における特別な語幹と語尾の屈折変化による幅広い変化、普遍的な命題から普遍的な「である」の分節化に向かったのに対し、国や文化ごとに別れた命題の構造(誰が語るかによる文法の違い)から、音声的な分節化(母音と子音の関係など)へ構造が変わっていく。

資本主義の発展と交通手段の多様化に伴い、言語の独立性が認識されたことや、動詞が名詞ではなく、目に見えない意志を示していることの発見があったからである。

 

これによって、バベルの塔によって失われた共通の言語を描き出す試みは終わり、それぞれの国や文化に付随する言語、ひいては思考方法への分析につながっていく。ここでも音声の追加による言語の進化の理論が生み出される。グーグル→ググるのような音声の変化による進化である。これは文化や歴史の流れに伴う進化が想定されているのである。

 

さて、この根底にある考え方の根底にあるのは何か?まぁ人間なんですけども、その人間の分析の構造がある。

 有限性の分析、経験的=先験的反復の分析、思考されぬものの分析、起源に関する分析である。

有限性の分析とは、労働、生命、言語という実体的な概念によって縛られた、人間の有限性の分析である。つまり、労働は人間が行っているものだから、当然人間の一部と言えるが、生まれながらにして労働せざるを得ないという点では人間ではない何かである。生命も生物である以上当然人間のものだが、避けられぬ死、避けられぬ生という点では人間ではない何かである。言語もそれによって人間が思考して生活を営んでいる以上人間の一部であるが、言語でしかものを思考できないという点では人間のものではない。そうした諸概念の限界によって縛られつつ、人間の範囲を設定していくのが有限性の分析である。かつ、この諸概念は人間の経験から作られる。だから、人は絶えず経験から諸概念をくみ取り、その諸概念を分析することで人を分析するのである。マルクスの言う労働の疎外は、こうした有限性の分析の一つなのだ。

次に経験的=先験的反復の分析とは、カントの純粋理性のことである。ア・プリオリな全ての経験に先立つような存在と、経験に基づくが、その経験の根底にあるものの反復である。ちょっとズレているが、簡単に言うと数学と実験の反復である。

マルクスはG→W→G´とア・プリオリな式を提示しつつ、実際に搾取されていう事例を大量に持ち出して、経験に基づいた分析もしている。この二つの方法により互いに証明し合うようなことが経験的=先験的反復の分析である。

思考されぬものの分析。これはコギトつまり、自己意識の分析である。自己意識の定義づけを行うのである。無意識の分析や、人間の表象を認識する自己意識とは何か?と意識を持つ人間をひたすら細分化し、無駄な要素を捨て去って、コギトを浮き彫りにしていくのである。それは生命や労働、言語についても純粋な労働とは?純粋な生命とは?純粋な言語とは?というそのものへの分析となる。

起源に関する分析。これはコギトが、どこから来たのか?労働、生命、言語に縛られた人間はどこから来たのか?そうした起源を考える。起源を考えることによって更なる期限の後退を示していく、○○の原因は何か?をひたすら考察し続ける、これによって究極的には時間の全てが失われるような限界点を見出すことになる。そしてその限界点は同時に終着点でもある。ニーチェ永劫回帰や、マルクスの終末論(マルクスは革命は原始時代への回帰にも見えると述べている。)はまさしくこのループによって作られている。

ということでこの上記四種は言語の四種の構造と対応している。命題と有限性、分節と経験的=先験的反復の分析、指示とコギト、転移と起源といったようにである。

こうした起源の分析、実定性の分析が人間という表象をひたすら拡大していくのだ。もちろん古典主義時代でも相違性による表象の拡大はあった。しかし、それは表象の中で行われるものであり、この人間諸科学はその裏へとひたすら向かって表象を拡大していく、「メタ認識論」としての動きを見せている。

 表象の限界から生み出された有限性を中心とした人間の分析、つまり人文諸科学が発生したのである。機能(生物学の派生として心理学)、葛藤(経済学の派生としての社会学)、意味作用の理論(言語学の派生としての神話、文学の分析)が始まる。この三点からなされる分析は、精神病や、病理社会、意味のない言語を作り出すが、分析が進むにつれてそれらを包括する概念が生まれる。

つまり規範、規則、体系の概念である。機能に対する規範は正常な機能や悪い機能ではなく、それら相互の調整機能とする。葛藤に対する規則は社会の規則の多様性を認めるものであり、優劣を打ち消す。意味作用の理論に対する体系は、無意味と思われるものでさえ、体系としてみればある役割があることがわかる。

この三つの線分は相互に対立したり一緒になることで新たな学問を生み出す。機能の通時態(生きる過程としての歴史性)と葛藤と規則、意味作用の理論と体系の共時態と(人の文化の構造)対立することで、レヴィストロースのような文化人類学が発達する。

葛藤(内面の心理)に対して機能と規範、意味作用の理論と体系(言語や生存における相互調整)の対立により、ラカンのような精神分析学が生まれる。

意味作用の理論(文学)は機能と体系、葛藤と規則(作者の内面の葛藤と脳の働きによる理解)と組み合わさってロラン・バルトのような文学評論家が生まれる。

このようにして実定性は徐々にその境をなくし、人間という存在一般への分析に移動していくのである。また、実定性は最終的に個々の学問の存在を可能にする。つまり労働も生命も言語も人によって微妙に異なるのである。

 だから、構造主義と呼ばれる精神分析学や、文化人類学は元々の人間の歴史主義や精神の明証性に対する批判として新しい学問とされているが、実際のところは、人間諸科学を自己の側に突き詰めていくか、社会の側に突き詰めていくかというだけで、近代のエピステーメーの流れの一部でしかないのである。

ところでこの二つの学問は最終的に言語にもう一度回帰している。古典主義時代に中心となっていた言語がまた力を取り戻している。言語から人へそしてまたしても言語に帰ろうとするとき、人間という概念がまだ消え去ることもあるかもしれない。

 

【感想】

ということで、長かったですが終わりました。

まぁなにはともあれ、非常に複雑な本でありまして、経済学の歴史を追うように本を読んでいた学生時代がなければ、理解できなかったことでしょう。文学について触れてるところもありますが省きました。読みたかったら原本どうぞ。

さて、この本では終盤にかけてちょっと憶測が増えてきて怪しいとはいえ、表象と言語が結びついた、言語至上主義のようなものから、人間を実定性(諸概念)の中で位置づけ、そして人間から出発して実定性をくみ取る人間至上主義に知の体系が変化したという話は非常に興味深いものがあります。

最近SFでよく言われる、アンドロイドは生物か?という話があります。なぜ僕たちはアンドロイドを生物だと考えないのでしょうか?それはフーコーの言う通り、生命を人という存在から定義づけているからなのです。つまり血液が通っていて、ご飯を食べて、呼吸をして、生殖をする人間の仕組みから生命を定義づけているのです。だから、石とかは生物じゃないのです。古典主義時代は違いました。全て同列でした。どれが生命か生命ではないかという分断はなく、全て神の被造物という包括的な概念によって表現されていたのです。

アンドロイドは近代の意味での生命ではありません。血液がない、ご飯を食べない、呼吸しない、生殖しないからです。だから、人はアンドロイドを人間じゃないと言います。

そしてその反論としては、血液=電気といったように人間に似ているとか、感情があるとか、ですが、やはりこちらも人間から生命を考えての反論にすぎません。

アンドロイドについての生命哲学は肯定も反対も結局は近代のエピステーメーの中でプロレスをしているだけなのです。今後AIが発達してアンドロイドが出来た時には、こうした考えを根底から覆すエピステーメーの配置が生まれるに違いないと僕は考えています。なぜなら、AIこそが人間の限界だからです。

生命は上記のとおりですし、労働に関してももはや人間が不要となったときには労働が人間を縛ることはなくなります。言語についてもAIは文化の壁を越えて、共通の言語を使うのです。今まで私たちが固持していた有限性を軽々と乗り越えるのがAIなのです。そうした時に我々は必ず思考の転換を余儀なくされるでしょう。資本主義や自由主義の台頭の中で、人への分析を余儀なくされた近代のように大きな変化が来るのではないかと考えています。

質問は随時受け付けるからコメントしてください。終わり。