うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

朝、起きて、迷う

 朝起きると、急な退屈さが全身を襲う。最近本当に横山緑しか見ていない。全く何が面白いのかわからないものを一生見ている。
 最近笑ったのはみどりさん・・・と言い続ける謎のおばさんのネタだけ。
 と、急に朝起きてとにかくイカれた文章を書きたくなってきた。

 ずっと前から実は考えてきたことなのですが、三島由紀夫のような小説は僕には不可能だと思います。
 彼は、文豪の大変奇麗で美しい作品を更に刀を毎日研ぐような狂気で磨いたような小説でございますが、僕の場合は初期のブログ用にちょっともう訳のわからないポテチを食うやつとか、そういうのが好きなのです。
 更に言えば生い立ちも違う。今やアニメマンガゲームカルチャーなのに、未だに純文学などという明治時代の話を作ろうなどとは難しきことです。
 もちろん、その文章や構成の美しさ、人間の心をえぐるような文章は素敵ですが、今書いたってただのパクリです。こうやって書いている間にも、どうも型にはまった日本人らしい仕事のような文章が続いています。

 思えば僕がブログを書くのはこの恐ろしい社会で常に世間体を意識し、出来るだけまともであることを強制される世界での唯一のユートピア。そのユートピアでまともなことを書いて何の意味があるのかと思いました・・・。
 
 今回を最後にして次回以降のブログは異世界転生ものを書いていきたいと思っています。朝もう仕事行くので終わりです。期待だけしててください、ありがとうございました^^

継続性という病と未知

 鶏も夏バテになる、そんな猛暑が続く日々。少しでも外に出れば汗が体中にべったりと纏わりつく。日本の暑い夏である。日焼けをしたいと願っているが、赤くなるだけ。皮は剥けるが痛みはない。
 汗が臭いのは困るので、サウナに入っていた。実際には去年の冬から通っており、とある有名なサウナに入った4月には長時間入り始めた。
 サウナ室には階級がある。手前から奥(もしくは暖房の近く)という軸に加え、1段目から最上段までの軸、そして時間の長短で構成される三次方程式により格付がなされる。私自身は奥の最上段が多いが、時間は10~15分程度。つまり、弱者である・・・。
 実際のところ、そんな格付は大して意味をなさない。何故なら皆、サウナに自尊心を満たしに来ているわけではない。水風呂とサウナの往復を通じて、心臓の鼓動は激しいのにもかかわらず、体の力は一切抜けている、わずかに地面から浮遊しているかのような感覚、所謂「ととのう」を探しているのだ。
 ところが、お尻がかゆい。ずっと尻の穴の周りがかゆい。寝ている間には無意識にかいてしまっており、傷になり、痛みすら感じた。オシリアを塗り、眠る時には尻の間にトイレットペーパーを挟んでかかないように対策した。
 そんな努力を続け、睡眠時間も削られながら、サウナに入り続けたが、結局一番の原因は「汗」だということに気づいてしまった。同時にサウナに入ったあとにコロナウイルスにかかったので、ついに入ることも辞めてしまった・・・。
 

 そんな矢先、急に文章が書きたくなった。
 理由はわからないが、自分のことを変人か奇人だと思っていた私も気づけば結婚しそうだからかもしれない。いや、より正確に言えば、常識人の生活を営み始めている、この人生の分岐点を記録に残したいと考えたのかもしれない。
 年を重ねるのは恐ろしいことだという。人は二十歳から緩やかに死んでいくという人もいる。大変不思議なことであるが、私自身は特に感情の衰えを感じている。笑わなくなったし、泣くこともなくなったし、驚いたり、焦ったり、そういう感覚がなくなった。何よりも、そうした自分に対して全く「無」であることに、思考が違和感を感じている。あの散々軽蔑していた「コンビニ人間」になってしまっているのだ。
 だから私は、今の自分に対する恐ろしさを取り戻すべく、三島由紀夫の「命、売ります」を読み始めた。この話は、全く死ぬことに恐怖心がなくなった若者が、命を売ることを始めるが、ある闇の組織に命を狙われ、最後には死の恐怖を感じる話である。
 三島由紀夫の小説にしては軽い文章だが、どの小説よりも死について的確に書かれている。死とは分かっていれば怖くはない、だが未知である故に怖い、ということを。だが、小説は私を救わなかった。
 頭の中は何をしても想定内であった。全く文字が私の胸を突き刺さない。だから文章を書き始めたのである。毎年最低でも1回は更新していたブログは2年も更新されていない、経過した時間の空虚さを感じながら・・・。
 2年前の記事は「人生の反省」。姉さんにフラれたあとのヤケクソさや、後悔に満ち溢れながら、勢いに任せて書いた文章である。その前には姉さんとの色んな片思いが綴られている。その前は仕事の話が多く、残りは読書感想文、まだ私が学生時代に書いたものもある。
 

 ふと、過去の文章を読んで私の心が動いた。
 黒歴史は私の心を一瞬だけ、救ったのである。羞恥心であろうか?いや、そうではない、あの不思議な感覚、社会人という継続性を維持するために失ってきた感覚が静かに、一瞬灯ったのだ・・・。
 少し前なら、私は感情の激しさに任せて、文章の「転」にあたるこの部分を中心に激情的な文章を書いたに違いない。しかし、今やその感覚は失われてしまっている。
 何故こんなことになってしまったのか?それは社会人という継続性を獲得した結果だと思っている。
 行動というものに対する圧倒的な恐怖心、未知性、それに抗うための強靭な精神力、過去の私はそれらを日常的に摂取すべく行動し、多くの失敗を重ね、感情を思うがままに開放し、自らの体の内で収まりきらないものを文章に出してきたのである。
 故に文章は短くなりがちで、収まりきらないものが浪費されれば、急に書くことへの関心を失い、小奇麗な結論を用意し、満足して眠っていたのである。
 他方でこうした行動は社会人には全く必要がない。燃えるような熱意で仕事を行い、ある時は大失敗し、ある時は大成功するような人間は社会の歯車となりえない。会社ごとに存在する不文律を体に染み込ませ、それ以外のものは排除し、上から下へ浸透させていく・・・。そこに楽しさを感じることはリスクでしかないのである。
 また、あらゆるものに対する怒りや不満に悲しみ、それもまた不必要である。だから、日毎に感情を擦り減らし、似たような作業の再現性を高め続けてきた。

 このようにして、私は三島由紀夫岡本太郎と一緒になって批判してきた、何の精神もなく社会人として働き、結婚する世間一般の型にはまった人間となったわけである。
 そんな私を救う希望はないのだろうか?文章を書きながら考え続けた。とにかく考え続け、淡々とここまでやってきた。
  淡々とここまでやってきた・・・?このブログの文章量、今までにないぐらい長い。激情に任せて書いていた時と違って、長続きしている。私が小説家になりたいと思いながらついに今まで小説のようなものを作れなかったのは、長時間の行動に耐えられなかったからである。
 裏を返せば今はその力が備わっている。行動に対し、エネルギーを激しく消費しなくなった代わりに長く続けることができるようになっているのだ。冷静に考えてみれば、お尻がかゆくなって辞めたあのサウナも、去年の冬だから1年近く続いていた。体を鍛えようと思って始めた縄跳びは山登りに変わり、今は筋トレに変わっているが、それでも「体を動かす」という形で半年以上続いている。
 今までの私は若さゆえにすぐに結果を求める奔馬であった。あらゆる未知を急速に潰してきた時期は終わり、次の段階、時間をかけて大きな変化をもたらす段階に来たのかもしれない。思えばこれは私にとって大きな未知であり、最後に残された行動の余地である。
 故に私はこれから筋トレを10年間継続し、ブログも定期的に続けていこうと思う。とりあえず、ブログは週1ぐらいでどうですかね。あと長く続けたら面白いこと教えてください。終わり。

人生の反省

 通勤中、車内に鳴り響く「QUEEN」。もう何度も運転した道、前を走る車、信号が漠然と目に映る。特に何かを考えるでもなく、ハンドルを握る毎日。

 退屈のあまり車内で一人カラオケを決行するときもある。強引な車線変更や明らかにスピードの遅いトラックに腹を立てることもあったが、今やその感情も失われている。

 ただ漠然と職場への道を走っている。店の駐車場に着いても、出ていくのが億劫だから、ぼーっとスマホを眺めながら漫画を読む。途中のコンビニで何か食べ物を買うこともある・・・。

 社会人6年目になり、ようやく「生きる」と言うことを理解し始めた。

 と、思いつくぐらい、僕は濃い人生を送っていると思っている自惚れ癖がある。所々で小説の題材になるような出来事はあったが、週2日は家で引きこもっていて、特に交友関係を広げていない。

 この間に世の人々というのは、社会で交流を広め、所謂「社会常識」を構築している。人同士は出会い、連絡先を交換し、ショッピング、食事、旅行等々の約束をする。コロナ禍などは関係なく、人と接しているのだ。

 過去に小説家を志した時、あらゆる文学に足りないものは社会経験だと感じていた。設定や人物は妙に浮世離れしていて、その世界は明らかに空想であった。もしくは、作家個人の心のみが真実であり、周辺世界はやはり空想である。だから、社会人として働き、常識なるものを身につけようとしたわけだが、どうにも上手く行かぬ。

 恐らく凝り症という性格と、妙に先を見渡した気になる性格の問題である。今現在は社会生活を営むというより、仕事を極めようとしている。歪な仕事への拘りが評価され、出世してきたが、虚ろな心は変わらぬ。

 代わりに大量に身につけた学術的な教養は、日本においては一切役に立たず、一般的な教養はないので、強烈な孤独感が僕の周りを渦巻いている。

 6年経過しても、生きる意味がわからない。働くことを楽しもうとやってきたが、6年も経つと同じことを繰り返すので徐々に飽きてくる。

 どうにも人というものは、自分のためにのみ生きるだけでは時間が余るように出来ているらしい。もっと別の、何か大きなものが必要なのだ。3年間恋愛している間の人生は楽しかったし、生きている心地がしたが、その後今まではやはり生きる心地がしない。さりとて、恋愛は明らかな運要素であって、そもそも自分が相手を好きにならねば始まらぬ・・・。

 この世の人々は何を思って、どう生きているのかが知りたい・・・。退屈を上書きすべく、何か行動せねばならないが、果たして何をすればいいのだろうか・・・。

 とりあえず久しぶりにコソコソ小説でも書こうかと思ってワードをアマゾンで購入しました。

 おしまい。

 

高級中華を食べる

 その瞬間は唐突にやってきた。

  ラインで友人に「どっか食べにいこうぜ」と誘うと「じゃあ馬喰一代行こうか」と返信が来た。

 僕は焼肉を食べる気分ではなかったので、「浜木綿にしようぜ」と提案したのだが、代わり映えのない六千円のコースは食べ飽きていることに気づき、「やっぱ開化亭にしよう」と何も考えずに提案した。

 すると何故か友人が「ええよ」と返信してきた。思えば当時の

我々はストレスで頭が混乱していた。
岐阜にいない人たちに説明しよう。

 「馬喰一代」は焼肉屋なのだが、牛角のような店ではない。真面目にお腹一杯食べようと思うと普通に1万は超えてしまう、叙々苑クラスの焼き肉屋である。

 「浜木綿」とは東海地方にある中華料理屋である。王将は千円程度だが、浜木綿だとコースで一人6000円。中華料理の中では安い方だが、それでも高い。

 そんな中、この「開化亭」は恐らく岐阜で一番の中華料理屋である。コースが最低でも16,500円もする恐ろしい店である。「浜木綿」がファミレス程度の店に見えてくる。

 過去に新橋の「末げん」に行った僕としては、いつか行きたいなと思っていたが、実家が永田町の高層マンションみたいな金持ちの友人は岐阜にいないので、一生行くことはないだろうとも思っていた。

 ところが、ストレスに悩まされる27歳の二人は何故かそこで税込3万円のコースを食べにいこうとなったのである。

 「末げん」の時もそうだが、身分の違う店を予約するときは震えるものである。

 ダイヤルする震える指。そしてつながる電話。「あ、あのここって電話でも予約できるのでしょうか?」と、どもりながらよくわからない確認をした上でなんとか予約し、食べに行くこととなった。

 店の入り口に行くと、店員さんがドアを開けてくれた。さすが高級店である。カウンター席に通され、シェフが接客をしてくれた。

 最初にシェフに「本日のスペシャリテキャビアの冷製ビーフンですが、スターレットベルーガどっちがよろしいですか?」と尋ねられた。

 スターレットベルーガ?????????何を聞いているんだ?たぶんキャビアのことだというのはわかる。しかしその違いはなんなのだ?一切わからなかったが、表情に出すことなく、笑顔でスターレットキャビアをチョイス。

 2番目に出てきたのが、そのキャビアの冷製ビーフンであった。↓これ

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 果たしてこの上に乗っているのがスターレットキャビアというものらしい。なるほど・・・。下はビーフンというより、春雨・・・?などと一通り観察をし終えたあとに、いざ実食。

 僕が完全に素人だと既に見破られており、店員に「これは混ぜて食べるんです」と説明されてしまったので、しっかり混ぜて食べました。

 味は完全に焼きビーフン。でもキャビアのプチプチ感と「冷製ビーフン」というだけあって、麺が冷たくさっぱりしている。そんな味。なるほどなぁ・・・美味しいなぁ・・・と思って、そこでようやく気付いた。

 なんで春雨の上にキャビアが乗っているだけにしか見えないのに、焼きビーフンだと感じたんだ?通常、麺とキャビアを混ぜたらただのしょっぱい冷たい麺になるのでは?でも「焼きビーフン」の味がしたのは???

 そう思ってビーフンとキャビアだけで食べてみると、ビーフンに味はない。キャビアに何かの工夫がしてあるようだった。しかも「焼き」が感じられるような焦げの風味がしっかりとする何かがしてあった。

 何かの本で読んだことがある。中華料理の本質とは「焦げ」であると。それは食感として使われることもあれば、風味として使われることもある。チャーハンなどはいい例で、炒める中で本来であればもちもちの米の表面を焦がすことで味を変えているなとなど・・・。

 思えば「スペシャリテ」とはその店の顔となる料理である。更に考え直してみると中華料理店の顔がキャビアってなんだ?という疑問に至る。だってキャビアって中華じゃないじゃんwwwwwwwwwwwww

 だがしかし、実際に食べると完全にさっぱりとした焼きビーフンで、中華料理なのである。もしかしてこの店は一見中華でないものを組み合わせて中華料理に仕上げているのでは???などと深読みまでさせる逸品でありました。まぁとにかく美味いもんは美味かった。下手な理屈抜きに美味かったんだなぁ・・・。

 あとは↓みたいなフカヒレ。これも程よく表面を焦がしてあってあんかけとの相性が抜群。あんかけと焦げのざらざらとフカヒレの食感が混ざり、また上の方に置いてあるアスパラガスと合わせるとすごく食感がよかった。

 安い店のフカヒレってのはマジで調理もほぼせずに、ただ突っ込んであるだけの場合が多い。それに比べて、ただフカヒレといっても調理を丁寧にすることで更に美味しくなるのだと学んだ。

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 ↓これは本体が何かを忘れてしまったが、手前は黒いソースのみ(これも焦げの香りが口の中に広がる)で、後ろの塊は抹茶かなんかのソースと黒いソースが絡まっている。よって、手前を食べた後に奥を食べると一気に風味が変わる。最初は焦げがついているので、若干焼き鳥のような居酒屋感があるのだが、緑色のソースと合わせただけですごく上品な味に変化して感動したのを覚えている。ソースに感動しすぎてかかっている食材が何かを忘れてしまう逸品であった。

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 他にも色々紹介したいのだが、もう疲れたので止めます。

 特にこの3品が美味しかったのは覚えている。他にも美味しいものがたくさんあり、3万円の価値は間違いなくあったと思う。

 和食と中華は極めたと思うので、次は洋を極めてきてブログにします。彼女でも作って一緒にいってきますね^^^

 

木曜日の20時からやるサスペンスドラマ

 ヤマさん「被害者は○○・・・」

 一課長「いくぞ!」

 みんな「はい!」
 (唐突に若者が出しゃばってきて)

 「私は警視庁○○課、勝又です!絶対にホシをあげてみせます!」

 一課長「勝ち気だな!よろしく頼むぞ!カツ!」
 木曜20時、こんなやり取りが夕食時のテレビに流れる。
 今日はサスペンスドラマ『警視庁・捜査一課長』が始まった日である。

 このやり取り、実はツッコミどころが2つある。
 その1、「勝又」と「勝ち気」でダジャレが挟まれている。
 その2、自己紹介してきたばかりの新人にいきなり「カツ」とあだ名をつけている。距離感が全然わからない上司である。

 文字だけ見れば、脚本家がふざけているのがよくわかるのだが、あの勢いで会話が流れると、純粋な視聴者の脳みそは壊されてしまい、違和感を感じなくなる。木曜サスペンスの恐ろしさである。

 木曜枠には『一課長』と並ぶサスペンス巨頭がある。『科捜研の女』だ。
 『科捜研の女』にも頭が壊されそうになる時がある。
 このドラマには、普通の事件パート、捜査パートに加え、『科捜研』パートがある。『科捜研』パートとは、沢口靖子が同僚と科学捜査をする様子が、やたらかっこいいBGMと共に流れるパートだ。
 一見すれば、『科捜研の女』のタイトル回収する一番のポイントなのだが、やはり純粋な視聴者の頭を壊してくる。

 成分分析などの科学的な捜査をしている中に、唐突にネットで人物名を検索する様子が入ってきたのだ。
 普通の人間であれば、ネットで人物名を検索するのは科捜研関係ないじゃんwとなるのだが、あの妙なBGMが流れていると、まるでネット検索が科捜研のように思えてくる。この脳みその壊し方が上手い。だからこそ、木曜サスペンスはいつまでも生き残るのだとしみじみと思う。

 ちなみに僕は土門さんと一課長の違いが全然わかりません。終わり。

暇すぎる3連休

 本日は有給休暇。とはいえ、コロナ禍なので旅行が出来ない。だから、一人で飲食店に行く程度しかできない。そんな絶望的な状況下において、一つの光明が差している。
・・・ポテチだ!!!
 本日食べたポテチは千里眼ニンニク最強ラーメン味と、お茶漬けのり味である。
 お茶漬けのり味は正直、のりしお味のポテチとあまり変わらない様子。多少だしの風味が効いているのが特徴か。
 千里眼ニンニク最強ラーメン味・・・。本当にニンニクの味がする。二郎にいったかのような薄汚い匂いと味がする。だが、それがいい!!これは非常に美味い。

 と、ネタもないのにブログを書いているところもミソである。

 バタピー食べるのも結構いい。業務用で1000円ぐらいで売ってるあれ。

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 こんなやつ。ビールのつまみとして最高だが、宅飲はしないので、普通にピーナッツだけぼりぼり食っている。

 最近はひろゆきが永遠としゃべってるだけのyoutubeライブのアーカイブを見ながら食べるのが趣味である。実は今もタイピングしながら、バリボリ食っている。

 特に美味しいわけでもないが、まずいわけでもない絶妙なテイストはやめられない。
 これはポテチとの決定的な差である。美味しいのだが、結構油が強いのと芋のたんぱく質が胃を圧迫するから、続けられない。

 噛むという行為には脳の働きを活性化させる働きがあるらしいので、噛み続けられるバタピーは最強なのだ。いつまでも食べながら脳みそが進化していく。さかなを食べると頭がよくなる、などと歌っているブラスバンドのペテン師も真っ青である。

 ところで、本当に退屈すぎてやることないので、誰か楽しいことを教えてもらえないだろうか?終わり。

 

 

うひょー、車通勤をする

 ふんわりと明るくなりつつある中、僕は車に乗っていた。
 すぐに出発することはできない。フロントガラスが凍っていて前が見えないから、ワイパーを動かして、ガリガリと氷を削る様子を眺めることから始まるのだ。
 そもそも、僕は過呼吸で倒れたことがあって、車で通勤することは封印されていた。
 気づけばあれから3年・・・。他の誰かと同じように車にのっている。などと、語っているが、僕の車はこんなんである↓
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 これの更に型の古い、しかももう10年ぐらい乗っているようなスクラップ寸前の車に乗っている。乗るだけなら不便はない。だが、3つの問題がある。
 1つ目。今流行のBluetoothが使えない。音楽を聴くときはCDを入れるのだが、旧式のカーナビを無理矢理設置したせいで画面が開かない。そう、CDすら聞けないのである。
 結果的にブルトゥース対応のスピーカーをわざわざ買って、アマゾンミュージックで音楽を聴いている。最近のマイブームはYOASOBIです。

 2つ目。絶望的にダサい。店に通勤すると、他の車はとんでもなくオシャレである。まずこんな軽のゴミに乗っている奴がいない。
 挙句の果てに女性の車の方がセンスがあり、

 「うひょーさんの車ってださいよね~。彼女できたらどうするの?」

などと言われてしまう始末。僕は悔し紛れに

 「いや、俺は名古屋の車あんまり気にしない都会の女の子と付き合うんで」

と、言っておいた。東京じゃあるまいし、名古屋の女の子もさすがに車に気は遣うだろうな、と心の中で思っていた。

 3つ目。車の中がすごく汚い。ストレスがたまると朝じゃがりこを食べながら、伊右衛門を飲む癖があるのだが、今コロナ禍で店の中にゴミを持ち込んではいけないのである。

 結果、じゃがりこのゴミが既に10つくらい散乱しており、伊右衛門も6本くらいある。とにかく汚いのである。
 挙句の果てにどうしても耐えられないとマックを食べるせいで、チキンタツタのタッッチの絵が描かれた箱もある。
 友達と「こいつは勘違い系だな」「本当の美人はこういうところにでてこない謙虚さがある」等々、悪口を言いながら車の中まで持ってきた「岐阜美少女図鑑」も完備している。写真の中の勘違いブスが

 「こんな汚い車の男に言われたくない死ね!」
と言っているのが聞こえてくる。

 そんなわけで、僕の車通勤は始まったわけだが、これから彼女を作るにあたって車を買おうと思う。100万ぐらいのね・・・。何がいいかおすすめあれば教えてください。

以上。