うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

人間関係ってやっぱりめんどくさい

な、めんどくさい

人間関係ってのは要は人間の集団における各々の行動みたいなもんですけども、最近リア充になってやっぱ人間ってクソだなぁって思いました。

さて、人間関係のルールとはなんでしょうか。それは単純に「少なくともその集団に属する他人に害を及ぼさないこと」です。公共の福祉みたいなもんです。道徳といってもいいかもしれません。さて、それでは害とはなんでしょうか。カントの実践理性でもありますけども、人を殺すな的な一定の明らかにダメな「害」はありそうです。

ところで、道徳というのは実は二つに分かれます。

まずは元になる、原則です。また出しますけど、人を殺すなってやつです。どうやら動物には種の保存をするための本能が備わっているようで、人を殺すなという原則はあるみたいです。
次に細則です。細かいやつです。例えば、人を殺すなの場合だと、自分が殺されそうなときは殺してもいいとかそういうやつです。

さて、話がぶっとびましたが道徳というやつは基本的に人に害を与えることに関してのものですよね。つまり人間関係で最も大事なのは道徳なわけです。そして道徳の中でも原則ではなく細則が人間関係で重視されるということも言えるでしょう。

さて、この細則ですが、正当防衛の場合でも人殺しはやっぱりだめだという人はいるんじゃないでしょうか。じゃあ殴ったらよかったのか。人によっては殴る場所が悪いと思うかもしれません。じゃあ、潔く死ねというのか。そうは言ってない。と、言い出したらキリがないほど人によって異なります。

つまり細則としての道徳は、非常にあやふやなもので、人の意志によって変えられやすいのです。では、どうやってその道徳は決められるのか。それは力でしょう。力といっても、暴力だけではありません。多数決もやはり力です。

こうやって眺めてみると人間関係は雲のようです。なんとも曖昧なものを軸にまとまっているのかがわかるでしょう。リヴァイアサンは強力な人間の集合体でありながら、実体のない空虚な存在なのです。そして、この曖昧な軸に合わない人間は排除されるわけです。

私自身は、何故か人に好かれる性質なので排除されたことはないのですが、排除される人を見たことはあります。彼はとてもいい人でしたが、その集団で力のある人(つまり集団での道徳を決める人)に嫌われて、排除されました。彼の何が悪かったのか私にはさっぱりわかりませんが、排除されました。

さて、この力のある人というのはだいたい一人じゃありません。複数います。力のある人達は○○をどうしよう~というお決まりのセリフでまるで神になったかのごとく人を裁きます。しかもそこで、どうしよう~から直接注意できる人ならいいのです。日本人の大半はそんなことできるはずもない意気地なしなので、どうしよう~からすぐに仲間外れに入るのです。いじめの初期段階もこのようなものでしょう。

このようにして、人間関係は維持されます。ただし、その外には独断で社会不適合者の烙印を押された屍が積み上げられているのです。

じゃあ、俺はどうすればいいのか。どうしようもない。やっぱり人間関係はめんどくさい。