うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

最近のアイデンティティーの動向についての考察

最近、アイデンティティーというものが非常に問題となっている。様々な人間がいつも以上にアイデンティティーを求める。一つの理由として就職氷河期があげられるが、これでは普遍的な解答とはなりえない。ここでは最近の出来事から人間のアイデンティティーに対する傾向について述べる。

1.アイデンティティーとは
アイデンティティーとは、『他者から見た自分を識別する特徴』のことである。なぜならば、自分が自分であるためには他者に識別されるということが前提条件にあるからである。そして、数多くの人間の中から自分であるということを認識される特徴こそがアイデンティティーとなりうる。逆に、相手を識別する特徴の見つけ方も一つのアイデンティティーとして表されるが、人間が意識的に考えるアイデンティティーは認識される方である。ここで、自分に価値があると認識されるアイデンティティーを正のアイデンティティー、自分に価値がないと認識されるアイデンティティーを負のアイデンティティーとする。

2.近年のアイデンティティーについて
近年は特にアイデンティティーに関しての注目が高まっている。その理由を明らかにする。
最近と数十年前の明らかな違いは、ほとんどの人間が高校へ行き、大学を目指すという時代にある。そのため数十年前は高学歴ということも重要ではあったが、『手に職をつける』という言葉もあるように学歴以外での価値というものが認められ、非常に正のアイデンティティーの幅が広く当然、アイデンティティーもあまり問題とはならなかった。
しかしながら、近年の学歴社会においては大学に行くということは当然のことで学歴というアイデンティティーがほぼ一強状態で、頭脳労働などという言葉があるように他のアイデンティティーは非常に低いものとして扱われている。そのためほとんどの人間は子どもの時から勉強をさせられ、ほぼ一つの目標を目指すことを強いられてきた。このように全員が同じことを目指す状況だと、もはや学歴はアイデンティティーとはなりえない。しかしながら、社会の状態からして、他のアイデンティティーは学歴との選択肢とはなりえずアイデンティティーが消滅する。これが今の現状である。

3.アイデンティティーの消滅とすり替え
さて、アイデンティティーは消滅したとしても、人間である以上求めざるをえないものである。この矛盾が人々に狂信的な行動を起こさせる契機となる。ここでは三つ例を挙げる。

一番簡単な例は、『友達』である。『友達』とは他者であり、アイデンティティーを生み出す根源的な存在である。そして、『友達』は社会という大きな存在よりも細かく自分を認識しうる存在である。それは大きな意味では失われたはずのアイデンティティーを回復することができる存在である。そのため、人は『友達』を求めるのである。このようなことは『親友』が何でも言える存在として規定されがちであることからも明らかであろう。しかしながら、最も重要なのは細かく認識されることであるのに、このことを『友達』というアイデンティティーにすり替える。これはマルクスの物神崇拝にも似たものである。そのため本人は細かく認識されているということは蚊帳の外で『友達』に固執する。しかし、現実は『友達』という漠然としたカテゴリーに分類される人間として認識されている。

二つ目の例は、『愛』である。恋に恋するなどという言葉あるように『友達』と同様のことが『愛』にも起きうる。『愛』は大きく分けて二つある。異性同士という意味での愛、親と子などの愛、である。まず、親子関係に見られる愛では親は子を愛するということで『親』というアイデンティティーを獲得する。しかし、それだけではなく育った子どもが親のアイデンティティーを規定することになるのである。教育熱心な親などはこれに属する。しかしここでは大した問題はない。なぜならば、親は子どもを細かく認識する存在であるとともにその認識が自分を作るのでそこにはすり替えが起きる余地はないのである。異性間の愛では『友達』で起きたことと同じことが異性間で起きるのである。例えば、今まで彼女がいなかった人間に彼女ができると途端に彼女のことを自慢しまくるようなことは、まさに彼女がいるというアイデンティティーを獲得することのみに固執し、実際の両者の認識に関してはあまり意味がなく、デートなど形式的なことを望むのである。

三つ目の例は、すり替えなどなしで最初から広いアイデンティティーを固有のものと信じ込むようなことである。ここでは、自分を認識する対象をはっきりと求めてはいない。なぜならこのタイプでは、自分を認識するのは社会(不特定多数の人間)だからだ。友達や、愛に求める行為はアイデンティティーの確立には欠かせないものであるが、ここでのアイデンティティーの獲得は学歴の位置にあるものをちょっと小さく分けてすり替えるだけである。不良、ネトウヨ淫夢厨、ネット住民、キモヲタ、ギャル、その他もろもろ全部そうである。右翼などは、日本人だということをアイデンティティーとして標榜している。なんという思考停止のありさまだろうか。
以上のように、自分だけのアイデンティティーを広いアイデンティティーにすり替えて自我を保とうとする傾向が人間にはあるようである。

もう眠い 文章ぐちゃぐちゃで全然まとまってないけど許せ