うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

もしも地方銀行の二年目行員がラッセルの「幸福論」を読んだら

目覚まし時計に起こされた僕は、ふと物をなくしたことに気づいた。印鑑の入った筆箱である。銀行員は印鑑なしには仕事ができぬ。なぜなら、印鑑を押す行為は、責任をもって仕事をしたと示すことだからである。自分がやっていない仕事でも、印鑑を押せば、責任を被ることになる。何回か軽い気持ちで押して、人のミスで怒られたことがある。真っすぐ押さなくても怒られる。きっちりやれと怒られる。そんなわけで、紛失すると所属店の点数が大量に引かれてしまう。
 なくなるはずはなかった。仕事用の鞄から取り出す機会は皆無であり、何かの拍子で落とすことすら考えられなかった。不安に駆られながら、僕は出社した。
 その時、「幸福論」を思い出した。今の苦痛は宇宙の中のほんの些細なことであると認識しなさい、と書いてあった。太陽の寿命は約50億年・・・、対する僕は80年・・・。今のミスで怒られるのはさらにその1÷80×365日・・・。途方もないことを考えているうちに、思わず電車の中で吹き出し、僕は冷静になった。落とすはずのないものがない、ということは会社にあるに違いない。その確率が99.9%だと確信し、精神の安定を得たのであった。
 案の定、支店に置きっぱなしだった。ほっと胸をなでおろした。
 ここで僕は今年初出勤だということを思い出し、
 「アケマシテオメデトウゴザイマス、コトシモヨロシクオネガイシマス」
 と最強の呪文を脳死状態で唱え続けた。
 後輩は出会った瞬間、この言葉を言わなかったので、僕が先に言った。なんて、ふざけたやつや!と思った。
 が、ここでも僕はラッセルを思い出した。自分の常識が全て他人にあると思うな、と書いてあった。そうだ、彼らは初めての正月だ。礼儀作法など普通知っているわけがない。思い出せば、去年僕は恐る恐る口にしていた。だが、「アケマシテオメデトウゴザイマス」だけしか言っていなかった。それに気づいた先輩が自然な形でお手本を見せてくれたのである。今度は僕の番だった。そして後輩たちもしっかり見て学んでくれたので、支店長には自ら挨拶をしていた。
 こうして僕の心は浄化され始めた。
 例えば、後輩が「僕ご飯食べてないんで」と言って仕事を回してきたとき、本気で怒ったことがある。その時僕もご飯を食べていなかった。だから、なめてんのかボケと何度も思った。
 しかし、これは僕が悪かったのである。なぜなら、12月以前、僕は後輩がご飯を食べられないことを大変気にして、仕事を肩代わりしていたのである。もちろんその時も僕はご飯を食べていない。しかし、一年目で四時過ぎの食事は可哀想だ、という気持ちが強かったので不満は感じていなかった。
 僕はいい先輩だったのである。だから、彼はいつものように仕事をお願いしたのだ。そうしたら急に怒られたわけだ。結構理不尽である。僕がやられたら、間違いなくびっくりしたと思う。心よりお詫び申し上げる。
 こう発想を転換したおかげで、忙しさのあまり失っていた本来の自分を取り戻し始めた。返事の声を大きくする。そうすると、上司の態度も心なしか優しくなった。ラッセルはこう書いている。幸福そうな人には幸福が舞い込んでくる、と。
 また、今まで忙しさのあまり回すことしか考えていなかった仕事を、じっくりやり始めた。同じ文章を30回くらい手直ししたと思う。時間はかかったものの、達成感があった。またしてもラッセルは言っていた。技術を生かす仕事をしている人は幸福である、と。
 そんなわけで、新年初仕事は最高な一日で終わったのである。いやぁ人生楽しいなぁ!?!?!?
 終わり。