うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」(感想)

 もはやタイトルがおかしなことになっている。読書感想文(感想)とはこれ如何に?要約しきれず長くなってしまったので、要約二つと感想一つの三部構成となっちゃったね^^

 ということで感想。

 日本人の国民性を考える上で、この本は非常に深い洞察に満ち溢れている。
こういう話をよく聞いた事があるだろう。日本人はクリスマスを祝い、年末に寺へ除夜の鐘をつき、年初は神社でお参りをする。八百万の神までいて、田舎の山奥には土地神を祀った祠が置いてある。だから、宗教意識が非常に低い国民性であるという話だ。

 この本では日本人の宗教を「武士道」だと言っている。特定の神が存在するわけではないが、特定の死生観を形作り、行動規範を作っている点では宗教だ、というのだ。そして「武士道」は儒教、仏教、神道が自然に混ざりあい時間とともに形成されてきたのである。これには聖書やコーランのように文献がない。

 様々な宗教をベースにしつつ、様々な有名な武士の逸話が語り継がれることで、一つの規範を作り上げていったのである。だからこの本でも、逸話がたくさん紹介され、特徴が述べられる。

 その理由は平和だから、ということに尽きると思う。ヨーロッパ、中東、中国、インド、こうした国々は耐えず、様々な文化が衝突し、消え去る場合が多かったのである。だから文章にせざるを得なかったのだ。しかし、日本は戦乱の世になっても、結局は天皇中心だったのである。武士は敵であると同時に仲間であったのだ。語り継ぐだけで十分だったのだ。

 私は現代の日本に「武士道」は生き残っているだろうか?と考えてみた。あくまでも僕と、僕の周りの日本人という意味でしかないが、新渡戸稲造が列挙したものを一つ一つ述べていく。

 「義」や「仁」はあっても、「勇」は既に失われつつある気がする。より自己中心的になり、誰かのために!という思想はないだろう。とても些細なことで言えば、電車で席を譲っている人を見たことがないし、募金箱はいつもスカスカである。「武士道」の要求するようなものは既にないと思う。

 「礼」「誠」「名誉」はまだあると思う。しかし、「忠義」は失われつつあるのではないだろうか。「恥」の概念によって、日本人は強く縛られているのを感じる。「人前で恥ずかしい!」なんていう言葉は典型例である。それで、個人的な名誉のためにも、見知らぬ人が頼ってきた時は優しくすることもある。ただ「勇」が失われているために、自ら積極的にやることはないのだが。

「礼」の具体例は社会人なら嫌でもわかるだろう。細かく行動が規定されるのである。銀行のような古い組織では非常に窮屈である。と、愚痴を含めておく。

「誠」もまだ残っている。我々日本人は、どれだけ仕事が辛くても元気に振舞おうとする。
 一年くらい前のことである。私の職場の先輩が、店のある人のことを指して「あの人は辛い時に、ものすごく辛そうな顔するけど、俺はああいうのダサいと思うわ」と言った。まさに「誠」のかっこよさである。

 そして、この「ダサい」という言葉こそ、「名誉」に他ならない。体裁を強烈に意識する日本人ならではである。

 他にも例がある。東日本大震災の日にツイッターで黙祷するのを、偽善者だ!と批判する人がいる。あれは大袈裟にやっているから、嘘くさいということであり、まさしく「誠」である。私は遺憾の意をあえて示すことは、示さないよりマシだと思う。だが、やはり日本人だった。半分くらいは偽善者だと思う自分がいる。

 「忠義」は間違いなく、なくなったと言っていいだろう。敗戦によって天皇に対する忠義はなくなった。そして、代わりに会社への忠義が取って代わったわけだが、バブル崩壊という二度目の敗戦によって、消滅してしまった。家族に対する忠義は知らんが、長男が田舎にに帰って家を継ぐことを強制されることも少なくなってるから、そういう忠義も消えつつあるのだろう。

 高度経済成長の時代、バブルまでの時代は、まだ「武士道」はあったのだと思う。私の銀行には、心の底から会社に忠義を尽くし、誠をもってひたむきに努力し、誰もが気にしないようなところまで礼を尽くし、地域のために義と仁でもって貢献しようとする、そういう人間が本当にいる。これが日本人の「まじめ」の具体的な内訳だと思う。

 はっきり言って、私はついていけない。なぜ、ついていけないかと言えば、会社への忠誠心はないし、忠誠がないから誠でもって努力することないし、そういった人間を全く尊敬できないから礼を尽くそうと思わないし、地域より自分が大事だからである。そして、これらの事実に「恥」を感じることが全くない。

 そんなわけで、社会からは「武士道」は着々と失われつつあるのだと思う。しかし、中途半端に努力や考えを人に見せるのはダサいという考えが残っており、国際社会では遅れてしまっているのだ。ついでに自殺が多いのも、この考えのせいだろう。

 結局、日本人に残るのは名誉、つまり原動力としての恥だと思う。ところが、ネトウヨのように、名誉だけを振りかざし、他の要素は抜け落ちてしまったような人間が急増している状況を見ると、原動力にすらなっていない。誠がないから、じゃあ負けないように!っていう発想がないのだ。もはや日本は終わりである。 

 こんなわけで、武士道は日本の国民性を強く形どっていたわけだが、どんどん消滅している。僕が死ぬ頃には武士道なんてちゃんちゃらおかしいとか言われそうだ。

 私のひたむきに本を読む姿勢は、ある意味「武士道」なのかもしれない。少なくとも、新渡戸稲造はそう言っていた。もはや最後は愚痴になるのだが、僕が上司のことが大嫌いなのは、誠の欠如だということがよくわかった。

 何はともあれ、我々の国民性を形作る「武士道」、皆さんにはありますか?

 終わり。

 

 

 

 

 

 

 

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」後編(要約)

 どうも僕です。後編です。昨日は武士道を為す要素について述べました。

「誠」は言い損ねたことがありましてね、日本人にとっての誠実さっていうのは「僕は誠実です!」って大袈裟に騒いだりすることなく、ひたむきに内に隠して精進するっていう意味での誠実さなんですね。

 てことで続き。

 ここからは武士道が具体的にどういう行動をしてきたか、について語ります。

 武士の品性とは?博識ということではないのです。客観的事実をたくさん知っていることは問題ではないのです。

 じゃあ何を身につけるのか?儒学によって道徳を身につけたり、文学によって優雅さを身につけます。儒学は説明不要ですね、文学は辞世の句だったり、戦いの最中に歌の上手い返しをすると、すげえ人間性だぁ!殺すのは惜しい!って感じで命を見逃してもらえたりしました。

 他にも当然剣術や槍術、柔術があります。この柔術ってのが大事で、体のどこを抑えれば人が倒れるか、どういう仕組みで人が立っているのか、解剖せずに人体の仕組みを学んでいたんですね。もちろん、それが目的として示されるのは誠実さにかけるので、隠されてきましたが。

 そしてもう一つ、武士の品性といえば、損得勘定抜きってことですね。品性ってのは金のためにやるんじゃないですよ、自分を高めるためにやるんですよ。

 

 さて、次人に勝ち、己に打ち勝つために何をしたか?というやつです。まぁ単純に感情出す奴はださい!ってことですね。戦争に息子を送り出す親がばんざーいwwって言いまくったのはある意味武士道なんですよ。公の場で泣いて送り出したらそれは恥なんですよね。

 

 「切腹」野蛮な習慣ではなく、儀礼的な整然としたものだって言ってますね。処刑とは違うんですわ。あくまでもかっこよく死ぬってのが大事なんです

 だから、貧乏すぎて腹減って辛いからハラキリとか舐めたことはできない。そういう時は我慢しろってなります。

 逆にハラキリすべき時ってのは、親の仇、主君の仇討ちとか忠義の時ですね。その時はいかに平静を保って、感情を出さないか?というところがポイントだったり、後ろ向きに倒れるとダサいから、前に倒れるように袖を膝で抑えるとかやるんですよね。

 

 次は「刀」。まぁハラキリがこんなに神聖な儀式なんだから、そりゃ刀って大事だよね。刀鍛冶という行為自体も宗教的な厳しさがあるし、置いてある刀を跨いだら無礼千万ってことですね。

 

 はい次。女性の理想像。

 武士道ってのはそもそも男の道徳なんですよね。だけど、女性にも男性らしさを求めるのが武士道なんですね。女城主直虎が薙刀もって城を守ったりするあの逸話が残るのはまさに武士道ですわ。

 そしてこの女性ってのは、男の武士が国の主君に大して忠誠を誓うように、家の夫に対して忠誠を誓うんですね。だから懐刀を持っていて、レイプされそうになるとすぐ自殺するハラキリに似たことをします。

 男は外で、女は家で、というとまるで男尊女卑のように見えるけども、稲造に言わせれば、元々性差があるんだからそういうもんだろ、ということらしい。その根拠として、女性は家では全てのことを取り仕切っていて、実際の権力者なんですよね。

 また奥さんのことを愚妻などというけども、これは自分のことのように思っているから謙譲表現が使われるってことも述べてます。

 

 「大和魂

 武士道ってのが大衆の理想になったという話と、サクラが人気な理由について述べてます。なんでサクラが人気かというと、春にさっと咲いて、さっと散るその様子が誠実さを連想させるからだそうだ。

 

 最後武士道は甦るか?武士道の遺産から何を学ぶか?の二章。

 この本書かれたの明治時代なんですよ。急速な近代化で武士道って消えてる最中だったんですわ。それで、こんな二章が書かれてるんですね。

 稲造は日本が急速発展した理由を「名誉」にあると考えています。実利的に生活が豊かになるとか便利になれば、とかいう理由ではなく、欧米に馬鹿にされたままじゃ恥ずかしい、舐めんじゃねえぞっていう心意気が急速に日本を発展させたというのです。

 誰のための名誉かってのが大事で、主君のため、国のためなんですよね。だから、稲造は日本人ほど愛国心の強い国民はいないと言います。

 そしてものすごく愛国的で、人の言葉や態度に繊細な国民性が生まれた、というのです。こんな武士道は、名前が消えた後でも何かしらの形で残るだろう、と締めて終わります。

 

次回は感想いきます。

読書感想文 新渡戸稲造「武士道」 前編

どうも、僕です。

今回は新渡戸稲造の「武士道」について書きます。

この本は1900年に書かれたもので、世界に向けて日本人とは何か?というものを説明する目的で書かれたものです。

当然初版は英語、その後日本語に翻訳されました。何せ世界に向けて書いたものなので、シェイクスピアや旧約・新約聖書ギリシアやローマの学者の名前がたくさん出てきます。それによって、日本の「ハラキリ」を代表とする「野蛮」とされた文化にも合理性があることを説明しようとしたのです。

そんな決死の努力の甲斐もあって、五千円札に載っていた時もありました。実際のところ、樋口一葉なんかより全然偉大ですね。

さて要約。

第一章は武士道とは何か?ということを外国人向けに説明しています。要は騎士道ってことですよ。

第二章は何から成り立つか?ということです。世界的にみるとキリスト教がその信念となっているわけですが、武士道は神道に仏教に儒教がぐちゃぐちゃになって、実践的な知識のみが組み合わさったものだというのです。稲造曰く、ソクラテスの「知行合一」と同じ原理だってさ!

ここから武士道を為す、様々な要素が列挙されていきます。

まずは「義」。不正なことや裏切りに対する抑止力としてサムライが持つ観念であり、忠臣蔵なんかはまさに義の話。そして、義が「正義の道理」たる「義理」として大衆に受け入れられ、道徳になっているっていう当たり前の話ですね。

「勇」。「義を見てせざるは勇なきなり。」ということで実際にやらなけりゃ意味ないってことですね。

さらに、自分が殺されかけてる状況で平静を装ったり、仇討ちして義を守り潔くいハラキリするのも「勇」なんですね。

ここから発達するのが「仁」。医者ではありません。要は「武士の情け」ってやつよ。武士という軍隊が中心なのに、一般の平民が普通に暮らしていた江戸時代が成立したのは、仁によって無暗に殺したりしないことが武士道だったからですね。

そんな中で、どんな相手でも対等に扱おうとする「礼」が生まれてくる。お前ら茶道やったことあるか?どれだけ歩くとか、どうやってお茶を受け取るとか細かく決められてるんだけど、これが礼儀作法ってやつだわな。稲造はこれを最も効率の良い無駄のない行動であり、他のことをする体力を蓄える方法だっていうんですね。そしてこの礼のためには嘘もつくという日本人の性格が出てきているわけです。

「誠」自分に正直に生きろってことですね。武士に二言はないとかですね、真っすぐに生きろってことです。日本人なら説明するまでもないですね。

そしてここから出てくるのが「名誉」

日本人特有の概念として恥があることを述べています。ある武士に農民が「服にのみついてますよw」と指摘したら、「恥かかせやがって!」ということで殺した逸話など、「恥」の概念によっていろいろな行動が成り立っていることを述べています。

当然こんな風にいちいちキレてたら切り捨てだけじゃ社会は成立しないわけなんですが、日本人のもう一つの恥として、短気は恥、我慢できないのは恥っていうのが出てくるわけですね。

更に正しい時期に正しく死ぬのが名誉なんです。なんでも腹切ればいいってもんじゃないんです。

じゃあいつ名誉のために戦うの?命を捨てるの?その基準は「忠義」となるわけ。赤穂浪士ですわなw

日本人は家庭の人間が馬鹿にされても、特にキレたりしません。それは日本人にとってはダサいのです。でもボスが馬鹿にされるとブチぎれる。これが忠義なんですね。

 

ということで、まず一回目のようやく終わります。

 

読書感想文「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

 どうも僕です。

 今回は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の感想文書きます。

 SFでは最高傑作ともいわれるこの作品、ブレードランナーとかいう映画の原作らしい。

 核戦争で核の灰が降りそそぐ地球が舞台。もはやほとんどの人類が核を避けて火星に移住している中でのお話。

 火星を住める星にするために労働用のロボット、アンドロイドが使われていたんですが、たまに主人である人間を殺して地球に逃げてくるのです。

 そんなアンドロイドを殺して懸賞金を稼ぐ、バウンティハンターのリック君が主人公です。特に成果もあげられずぶらぶらしていた矢先、新型アンドロイドを検査で識別しようとしていた同僚のデイヴくんがレーザー銃でぶち抜かれます。後を継ぐのがリック君。アンドロイドを片っ端からぶっ殺すことにします。

 最初はポロコフというアンドロイド。デイヴをぶち抜いた男です。まぁなんだかんだで殺します。

 次がオペラ歌手のアンドロイド。彼女の歌は最高に上手なのでリックは感動します。あぁ~殺すの嫌だなぁ~と思いつつも、アンドロイドと人間を区別するための検査をします。

 この検査は、人間の同情心をテストするもので、人の肉を食べますか?みたいな質問をに対する反応のスピードを見て区別するもの。ところがどっこいテストの途中でグルのアンドロイドに偽物の警察署までしょっぴかれてしまうのです。

 が、まぁ紆余曲折あってそこにいた人間のバウンティハンター、フィルと共謀してボスを殺し、脱出。そしてオペラ歌手はフィルが殺します。その時にリックは妙な違和感を覚えます。

 今まで道具としか思っていなかったアンドロイドを殺してしまったことに、罪悪感を覚えたのです。そして、フィルの躊躇のなさに違和感を感じ、アンドロイドかもしれない、と思います。今度は検査をフィルに実施するのですが、やはり人間でした。

 全く自分を信じられなくなったリックは、自分自身がアンドロイドじゃないかと思い、テストするのですが、やっぱり人間でした。

 そんな途中で放射能で脳みそがやられたピンボケと呼ばれる人間の一人であるイジドアの元に、リックが殺したアンドロイドの仲間たち3人が現れます。

 ようやく出来た仲間に感動して、アンドロイドと知っても、通報せずに匿います。

 この時代の人間は孤独に飢えていたのです。ウィルバー・マーサーという爺さんが石を投げつけられ、怪我をする体験を共有する共感ボックスなるものがあって、皆その機械を使うことで心の穴を埋めているのが普通の状態でした。

 大喜びのイジドアでしたが、アンドロイドは冷たい。紆余曲折あって、アンドロイドが蜘蛛の足を切ってなぶり殺しにする様に耐えられず、逃げだします。

 そんな時にリック君登場。実はこの男、ここに来る前にアンドロイドとセックスしてしまったのです。そして彼女と、今度殺すアンドロイドは同じ型で、俺にはもう無理だ!と追い詰められながらも、ここにやってきたのです。

 まぁなんだかんだで殺して、終わり。

 

というのがこの話です。

 

 正直ね、要約辛いね。頭使いたくないね、稟議でもう限界。

 この作品は、人間の最も基本的な核は、共感であるとしている気がします。蜘蛛のくだりもそうだし、アンドロイドに同情するリックもそう。ウィルバー・マーサーもそうです。

 アダムスミスは人間にはシンパシーを感じる基本的な能力がある、と言いましたが、この作品もそんな感じです。

 これは今の現代にこそ言えることだと思います。今まで知能指数の高さが人間の特権だったのですが、AIが出来た時点で、もはやそんなものはありません。ひらめきがある!判断ができる!と言いますが、これもやはりAIで、できてしまうでしょう。空気を読む、感情を読む、これもAIはできるようになります。新型AIBOは飼い主の表情を読み取って行動を変えるそうですからね。

 それでも残るのは、やはり共感ではないか?というのが作者の話なんですね。

 実は僕も同じような考えに至ったことがあります。ちょっと前、AIが小説を書いたというのがニュースになりました。その時僕は「あぁ、もう人間の時代はおわったんだな」と思ったものです。そのあと粛々とあれこれ考えたのですが、残るのは共感性だけだと思ったのです。

 小説は、その時代に生きる人たちに共感されるか、普遍的に共感されるものが名作となります。はたして、AIにそこまでできるだろうか?と考えました。なぜなら、AIは人間ではないから、その気持ちを体験することができない、と思ったのです。

 真似はできるかもしれないが、本当の意味で共感できるのか?と思ったものです。ただ、これも人間中心の思考から抜け出せない僕の想像力の弱さによるもので、100年後には普通にできている可能性もあります。

 それでも僕は信じたいものです。人間のやるべき仕事が全てなくなって、何もかも特殊性が失われてしまった後でも、共感性だけは人間のものであってほしいと。

終わり。 

 

堅あげポテト食レポ

どうもーうひょキンでーすwwwwww

今日は堅あげポテトわさびあじを食べまーすwwww

やる気がないので写真張りませ~~~~~んwwwwww

うーん、むしゃむしゃ・・・。ばりぼり・・・・。まずい!

とてもまずい!!!!!!!!!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwwwwww

当然ですよね、だって芋にわさびなんて組み合わせ食った事ねえよなぁ!?わさびってのはさぁ、刺身みたいに水分多めでさっぱりした料理につけるから、香りが鼻から通って清涼感を増していって、美味しいわけですよ。

ところが、じゃがいもという清涼感の欠片もない、タンパク質の味にワサビをつけると、どっちつかずで中途半端になってしまって、まずい。堅あげポテトの、じゃがいもの柔らかさを消していても、味がどうも合わない。

最後に一つだけ褒めておくと、わさびの味が強烈で香り自体は素晴らしい。実家の冷蔵庫で何カ月も眠っている味のないわさびとは大違いで、新鮮な風味が口の中に広がる。それによって余計にじゃがいもとのミスマッチが強調されてしまうのだがね。

TODAY'Sうひょキンズポイント!とぅるるるるるるるるるるるるるるっるるるるるるるるるるるうるるるるるるるr・・・・・。

ドン!1点!!!!!!!!!!

いやぁやっぱりまずいですね、わさびとポテトの組み合わせなんてありえないですよ、人間としてありえない。味覚障害ですね。開発大失敗してるね。

と、今日はここまで!

 

 

 

 

ではありません!!!!!!

次に食べるのが堅あげポテト、あさりバター味!!!

さっそく、実食!

うーん、むしゃむしゃ・・・。ばりぼり・・・・。こちらは割とうまいですねぇ。

堅あげポテトにあさりという組み合わせ、マッチしてないですが、互いに邪魔をしあうこともありません。堅あげポテトを主食にあさりを食べるような感覚ですね。バターによって若干味を調えようという努力があって、うまく共存しています。調和はしてません。

わさび同様、風味はすごい。本当に新鮮なあさりを食べているような出汁の味がします。お酒に合いそう。

普通にあさり食べたほうが美味しいんじゃないか?という疑問もありますが、あさりを自分で作って茹でたり焼いたりするの、手間がかかりますよね。手軽にあさりの味を食べたいという方はありかもしれません。

食感がバリバリなので、あさりのあの妙なみずみずしい、柔らかい食感がなくなっているのだけは問題かもしれませんが、酒飲んでたら関係ないですね。

場が温まってきたところで、TODAY'Sうひょキンズポイント!とぅるるるるるるるるるるるるるるっるるるるるるるるるるるうるるるるるるるr・・・・・。

30点!!!!!!!!!!

 

やっぱり、あさりそのまま食べたほうが美味しい。これに尽きる。このポテト美味しいんだけど、やっぱ本物でいいよね?っていう気持ちが拭い去れない。

と、今日はここまで!ばいばいにーwwwwwww

 

 

読書感想文 G・ガルシア・マルケス「百年の孤独」

どうもお久しぶりです。僕です。

同じような内容を繰り返すだけだったので書いていませんでした。皆さんも、少し飽きてきていたのではないでしょうか?

今回は僕のブログの本領、読書感想文でございます。はてなブログで初めて読んでいただいた読者の方々も、この記事を読むことで、まるで自分が読んだことがあるようにインテリぶって話していただきたい。

最初に言っておきますが、この作品で読書感想文を書こうとしたことを後悔している。ほとんど支離滅裂にしか見えないかもしれない。本は自分で読んでもらって、最後の<感想>のところだけ読んでもらうのがいいかもしれない。
さて、記念すべきはてなブログ最初の本は、G・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」です。

Gで略されていますが、本当は「ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディアガルシア・マルケス」という名前です。コロンビア出身のノーベル文学賞作家でございます。この長い名前は南米特有で、自分の血筋をひたすら表したりするせいで、文字数が増えてしまうのです。
そんな作者の人生を反映したのか、「百年の孤独」の舞台は南米を想像させる熱帯と、自然に囲まれた原住民のような登場人物がたくさん出てきます。

コロンビアのリオアチャにある村に、近親相姦が続いていた一族がいるのですが、ある時ついに豚の尻尾が生えた奇形児が生まれてしまいます。

そんな中、この話の最初の登場人物であるホセ・アルカディオ・ブエンディアと、ウルスラ・イグアランの二人の男女が恋に落ちます。今まで同様、二人も近い血縁関係なので、豚の尻尾が生まれてしまうのを恐れて、ウルスラは子作りを拒否します。おかげで、不仲のうわさが流れ、ある日、ホセ・アルカディオが、そのことを馬鹿にした友人を殺してしまいます。

殺した友人の亡霊がホセ・アルカディオを苦しめ続けるので、村を出て、新しい村である「マコンド」を建設し、ここを舞台に話が始まります。

この二人の間の子どもは豚の尻尾が生えず、普通に育ちましたが、ウルスラは近親相姦禁止の家訓を残します。

 

という話なのですが、この話をこれ以上要約することはできません。小説全体が、このホセ・アルカディオの一族を巡る事件を要約した内容になっているからです。

例えば、最初の二人から子どもが3人生まれ、一人が拾われ家族の一員になるのですが、みんなバラバラに人生を送ります。長男のホセ・アルカディオは飲んだくれ、女好き、冒険家です。弟のアウレリャノ・ブエンディアは反乱軍として32回戦って、負けるという伝説を残します。アマランタは恋した男たち全員死にます。拾われてきたレベーカは、最終的に夫をなくし、孤独のうちに死にます。これが四世代くらい続きます。全部書くと気が狂いそうになりますね。

全体的には現実と非現実が入り混じる内容となっています。ジプシーのメルキアデスという男が、ホセ・アルカディオの唯一の親友になるのですが、その男が空飛ぶ絨毯だったり、よくわからないけど治る薬を持ってきたりするのです。また、村全体が変な不眠症に取りつかれることがあれば、幽霊もたくさん出てきます。かと思えば、普通に電話だの電車だのが出てきますし、自由党と保守党なんか出てきて現実的な政治色が出てきます。

どっかの馬鹿が、これを素晴らしい技法だということで魔術的リアリズムなどと仰々しく名付けています。そんなこと言ったら、ハリーポッターでも異世界ラノベ魔術的リアリズムだがwww

 

やはりこの小説で一番衝撃的な話はアウレリャノ・ブエンディア大佐と、ホセ・アルカディオ・セグンド(ホセ・アルカディオの孫)の話でしょう。

アウレリャノ・ブエンディア大佐は当初、金細工をひたすら作り続けるだけの職人だったのですが、ある時を境に国内全土で名前を知られるほどの大物になります。ところが人生の最後に、自分が誰一人愛することなく、何かの思想を持つわけでもなく、孤独のうちに生きてきたことを悟り、ひっそりと死にます。ちなみに超有名人だったので、彼の作った金細工は記念品としてファンが買うくらいでした。

ホセ・アルカディオ・セグンドはマコンドがとんでもなく栄えてきた時代に生きた男です。その時代は、バナナ会社がやってきて、村に社員寮だの農村だのを作って町へと発展させていました。ところがこのバナナ会社がブラック企業で、ホセ・アルカディオ・セグンドが中心となって、ストライキを始めるのです。ストライキは三千人ほど集まり、次第に暴徒となっていき、バナナ会社を潰せるほどの大きな勢力になります。ところが、巧みなバナナ会社の罠によって全員機関銃で殺されて、海に投げ捨てられてしまうのです。

しかも、政府の発表によってその虐殺は隠され、皆平穏無事に家に帰ったということにされ、誰もその事実を信じないのです。

そんな波乱万丈な様々な出来事が起きる中で、物語の最後まで生きる男、アウレリャノ・バビロニアが現れます。その時にはマコンドは既にさびれていて、バナナ会社がいたときのような繁栄の面影すらありません。それどころか、アウレリャノ・ブエンディア大佐を覚えている人すらいません。

誰一人として覚えていないのです。そして、村から人がどんどんいなくなっていきます。外に出ていきます。アマランタ・バビロニアはどんどん孤独になっていき、最後には叔母に当たるアウレリャノ・ウルスラとの愛のみが残されます。その愛の末に生まれたのが豚の尻尾を持つ子どもです。もはや百年以上も前の話で、豚の尻尾の話を覚えているものもいませんでした。ウルスラは産後に体調を崩して死んでしまいます。そして子どももすぐに死んで、死体はアリの餌になります。

完全に孤独になったアウレリャノ・バビロニアは、最後にジプシーのメルキアデスが書き記した暗号のメモを解読します。

そこにはなんと、この小説でつづられていた話が全て書かれていたのです。

最後はこう締めくくられます。

「予言の先回りをして、自分が死ぬ日とその時の様子を調べるために、さらにページを飛ばした。しかし、最後の行に達するまでもなく、もはやこの部屋から出るときのないことを彼は知っていた。なぜならば、アウレリャノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだったからだ。また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機械を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。」

 

と、いうことで、これだけ読んでもさっぱり意味がわからない小説だったのではないでしょうか。要約が出来ないとはまさにこのことですね。

 

<感想>

この本では孤独と、忘却と、愛がしばしば出てきます。ホセ・アルカディオは最後ボケます。ウルスラもボケます。ずっと昔話を続けます。
アウレリャノ・ブエンディア大佐はレメディオスという女性と結婚しますが、すぐに死にます。彼女のことを思って、詩を書いたりしてたのですが、大佐は死ぬ間際に結局自分のことしか考えてなかったのだと悟ります。

飲んだくれと娼婦が最後の最後で、体を交えない愛情もあることを知ります。

アウレリャノ・バビロニアは、孤独と忘却にに襲われ続ける中で、アマランタとの愛に逃避します。

大佐のように有名になっても架空の人物になってしまいますし、バナナで繁栄を誇ったマコンドも地図から消えてしまいます。全て忘れ去られ、過去にも未来にもその存在が認識されることはなく、消え去ってしまいます。思えば、僕らの人生とはそういうものではないでしょうか?どれだけ一生懸命生きても、最後はこうなるのではないでしょうか?

世界史ではアレキサンダー大王が今でも覚えられています。でもそれより前、例えば原始時代の英雄など誰が覚えているでしょうか?何かそういう祖先がいただけで、その中の英雄だの一族だのはもはや存在しなかったものになっています。

更に広げましょう。今これほど発達している人類の社会も、結局人類が滅亡すれば記憶そのものが消滅し、元々なかったものと変わらなくなります。

そういう意味では我々は孤独なのです。忘却され、今生きているという事実はいつか忘れ去られ、確実に消え去ります。覚えているのは誰なんでしょうか?自分自身でしょうか?無が私たちを包んでいるのです。その究極の孤独の中でこそ、愛が輝くのです。バタイユは「エロティシズム」という本で、人間は根源的に孤独であり、エロティシズムのみが孤独をごまかすことができることを示しました。

孤独であるからこそ愛は強烈になるのです。友達だとか知り合いだとかではだめなのです。メンヘラチックですが、やはりそういう結論にならざるを得ないと思います。

百年以上の出来事をたった470ページで語りつくすことによって、一層忘却と孤独と愛が強く感じられる、そんな作品になっています。

是非一度皆さん読んでみてはいかかでしょうか?

終わり。

 

 

 

 

 

量子コンピューターなんてのがあるらしい

最近、僕は量子コンピューターを理解しているところである。

普通のコンピューターでは0と1の組み合わせでデータを作るので2の桁数分乗の試行回数が必要だ。

しかしどうやら、量子コンピューターは違うらしい。量子は観測する前は確率的に0でも1でも両方の状態でありうるために、さっき2の桁数乗していた試行が、最もうまくいって一回で終わるらしい。

それぞれの桁が0でも1でもありうるので、並べたその一瞬で全ての場合でもありうるのだ。ちなみに宇宙の生まれた状態も、こうして全ての場合でもありうるという考え方の下で計算することが出来るらしい!それをするには人間が生きていられないかもしれないらしいが!

 

話を戻すと、この無限の可能性をとりうることには問題がある。それは、いくらどの可能性でもありうるとはいえ、観測した瞬間には0か1かに決まってしまうのだ。

何かの答えを見つけている時に、観測した瞬間に正しい答えとなるのは結局は運任せになってしまうわけだ。この運ゲーを如何に絞っていく仕組みを作るかというのが量子コンピューターの真髄らしい。

つまり、何かを量子コンピューターで計算したい場合、まずその計算方法を考えなけれなならないのである!これだけ面倒だと、一般人が量子コンピューターを使うことはあまりないかもしれない。

最も役に立つ利用方法は、ものすごく大きな数の因数分解らしい。普通に計算すると膨大な時間がかかるが、量子コンピューターによる計算方法が確立されれば一気に簡単になるそうだ。

因数分解は総当たりなので、従来のコンピューターが運良く答えに当たるためには、とりうる値の総数の半分くらいは試行しなければならない。だが、量子コンピューターなら、n個総数があれば√n回でいいそうだ。

なかなかすごいことだねぇ、で、何の役に立つんだい?わかんないねぇ!?

暗号は因数分解を使ってたりするらしいから世界が困るとの噂もあるけど、実際のところどうなんでしょうね。

AIが量子コンピューターを使いこなして何か変わるもんなんですかね。

 

世の中の最先端ってのは本当に摩訶不思議でございます。

 

終わり。