うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

私が精神を病むまで その2

 全ての始まりは突然やってきた。私の先輩が転勤したのである。その空いた穴に代わりはなく、私が外回りをすることになった。体中の感覚がなくなり、思わず笑い声を上げたのを覚えている。自分を追い詰めた恐ろしい癖は、既に出始めていた。
 先輩とお客さんへの挨拶回りを三日間やった。食事も全くせず、気が狂ったように回った。そして、とにかく怒られた。名刺の出し方が悪いといった礼儀作法のちょっとしたことがまず一つ。そして、もう一つは会話の仕方であった。
 最終日、とある会社への挨拶に行った。私と先輩は事務所から中が簡単に見える、わずかな仕切りだけつけられた応接に通された。二人で立っている間、僕はこの三日で一番緊張しながら、車の中で伝えられた先輩の言葉を思い出した。
 「ここはお前が行くところで、一番大きな会社やから、気をつけろよ。今までの気のいいお客さんとは違うからな、社長と会長は親子じゃないぞ。この三日、俺がよく電話かけとったと思うけど、全部ここの社長を捕まえるためやからな」
 既に散々脅されていた。社長に会うためだけに、いつもより一時間も早く外出した。
 そんなわけで、私の背筋は硬直し、名刺の渡し方、笑顔での自己紹介と、何度もシミュレーションしていた。
 少しすると、事務所の奥から二人の男性が歩いてきた。ぴっしりとスーツを着ており、姿勢がよく、その歩き姿から常人ならざるものを感じた。
 「私、○○銀行のうひょーと申します」
 「私、代表取締役社長の○○と申します」
 「私、代表取締役会長の○○と申します」
 一生懸命下をとり、笑顔を振りまいた。しかし、ここで問題が起きた。社長が先に名刺を渡したのである。わからない読者のために説明しておくと、名刺交換は基本的に一番偉い人が先にするのである。その人の名前は会社を代表しているからである。つまり、社長のほうが会長より身分が高いということになる。しかし、通常の企業では会長の方が偉い。どっちが正しいんだ?私はいきなり社会に試されたのである。
 私の出した答えはこうだ。何十年もやっている社会人が、名刺を出す順番を間違えるわけがない。だから、社長の方が偉いのだ、と。
 だが、これで解決したわけではない。名刺を二つもらってしまったわけだが、これをどこに置くべきか?という問いが現れる。一人だけなら、名刺入れの上に置くだけであるが、二人はどうするべきか。重ねて置くのは正解なのだろうか?この場合、社長の方が身分が高いから会長の上に重ねておくことになるだろう。しかし、いくら身分に差があるとはいえ、もらった名刺を他の名刺の敷物のように使っていいのだろうか?またしても社会に試された。
 結局、私は重ねることにした。もしかすると、会長の名刺だけしまうのが正解だったのかもしれない。だが、もう会話は始まっており、タイミングを失っていたから、載せるしかなかったのである。
 諦めて、張り付いた笑顔で周りを観察した。社長は若々しい褐色肌で、黒い眼鏡をかけており、茶髪だった。50歳はゆうに超えているのだが、銀行員の同年代の上司と比べて活力が全然違う。一方、会長は全て白髪になっており、体の弱そうなおじいさんにみえた。 
 「なんや、もう転勤か!」
 と社長が大きな声で言う。
 「そうなんですよ~銀行員は転勤早いんで~」
 「ほんとやなぁ!コロコロ変わるなぁ」
 先輩が一瞬コーヒーを口に含んで、
 「ボロ雑巾みたいに使いまわされますよ!」
 と返すと、全員が笑った。なんともくだらない会話である。
 「うひょーくんはどこ大学や?」
 「○○大学です」
 「どこにすんどる?」
 「○○です」
 「ほぉ~」
 対する私はあまりの会話のスピードの早さに、全く気の利いた一言も言えなかった。聞かれたことにただ答えるだけで終わってしまった。
  
 車に戻ると
 「お前、三日間で何を学んだんや!この人らどういう人やった?」
 「は、はい・・・。勢いがすごく・・・。」
 「お前もう少し考えろや、この相手は聞かれたことに答えるだけでいいのか、とかオウム返しだけでいいのか、とかもう少し考えろ」
 「はい・・・」
 散々怒られながら、私は引継ぎを終えたのであった。この三日で、私が何一つできていないことを認識したのである。辛かったがこの三日間、みっちり教えてくださった先輩には感謝している。もし、ここで何も教えられていなかったら私はもっと早く病院送りになっていただろう。
 だが、本当の地獄はここから始まったのである。