うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

厨ニの時の思い出

どうもこんばんは、僕です。
 皆さんは人生で物事を長く続けたことがあるだろうか?小学生の時から野球やってます!っていう高校球児はよく聞くことだろう。僕の場合は読書で、高校の時は一度中断したものの、結局小中と大学、そして今と続いている。 
 どこの世界にも淘汰はある。続いていることがあれば、三日坊主で終わったこともたくさんあるのではないだろうか?例えば、進研ゼミが数カ月しか続かなかったというような記憶がある人は多いだろう。よく母親に叱られたものである。
 叱られた記憶で大きなものはディアコスティーニである。CMでもお馴染みの「週刊○○」シリーズだ。僕は中学生時代、週刊マイ・ロボットを購読した。その名の通り、毎週ロボットの部品が送られてきて、地道に組み立てていくものである。
 読書家だと知っている皆さんにとっては意外だろうが、当時は理系を目指していた。それも、ロボットを作りたかったのである。
 きっかけは愛知万博。当時の目玉は二つあって、日立館とトヨタ館だった。日立館はVR動物園を展示していた。キリンが迫ってきて怖くなって、機械を外したのはいい思い出だ。最近PSVRとして画期的だと言われてきたが、もう2005年の時点でその技術は出来ていたのだと思うと感慨深いものがある。そして、トヨタ館はロボットのコンサートをしていた。会場を縦横無尽に駆け回りながら、音楽を演奏しているロボを見て、アトムは想像の世界じゃないんだ!と心を震わせたものだ。
 こうした夢に加えて、思春期特有の死への恐怖があった。小学校を卒業する頃、これまでの人生の早さに気づいて愕然とし、初めて死を意識したのである。僕はよく病室で寝ている老いた自分とその先の深淵を想像した。恐怖のあまり動機が激しくなり、眠れない日もしばしばあった。
 そこで思いついた解決策は三つある。一つ目はクローンの移植。自分のクローンを作りまくって移植すれば無敵じゃないか、という発想だ。しかしこの案は致命的な欠陥を持つ。臓器や細胞は移植できても、脳の移植は不可能だろう。もし記憶がニューロンによって作られているとすれば、入れ替えれば別の記憶が入ってしまい、生き続けているとは言えないのだ。
 こうして生まれた二つ目の案が自身のロボット化だ。脳を機械にすれば、不老不死になれると思ったのだ。中一の時に辿りついた案であり、理系への道を志した理由にもなっている。だから、マイロボットを買ってほしいと散々せがんだのだ。細かい部品を組み立てて少しずつ頭が完成する様子は感動的だった。だが、この案にも欠陥があった。脳の記憶をデータにして移すとして、元の体はどうなるのだろうか?ということだ。元の体から記憶が抜けたとすれば、それは死ではないだろうか?データに変換し、ロボットとなった僕は、それ以前の僕と同じ存在といえるだろうか?つまり、記憶をデータに変換する際に自我が連続しているのか、という問題に突き当たるのである。そして、僕は記憶が抜かれた時点で死んだ、と結論付けた。具体的な理由はない。ただ、死という不確定な世界と記憶が抜かれてデータにが連続するか、ということの不確定さは同じように思われただけである。厄介なことにこれは実証不可能である。他人が代わりになったとして、データを移されたロボットは間違いなく、記憶があるのだから移す前の人間と同じだと答えるからだ。
 さらに不老不死そのものの問題に気づき始める。一つは人口問題。死なないのだから増え続けるのは必然だからだ。そしてもう一つ、究極には太陽が肥大化して地球が飲み込まれるのだから死ぬ。という事実。この辺りで宇宙に関しても無駄知識をたくさんつけたのを覚えている。そうすると他の惑星に逃げる必要があり、人間の技術が間に合うのかという問題が出てくる。不老不死の増え続ける人口と惑星移住の技術のチキンレースである。また、人口を増やさないという選択肢はなかった。なぜなら有名な発明家は基本的に若い時に、人類史に影響を与えてきたから、不老不死で長生きした人間では技術開発は不可能だと考えたからだ。
 この問題の解決策は社会を不老不死と普通の人間の階級社会にすることだった。そうすると、俺は富裕層になるのが一番死を克服する近道なのではないか?と考え始めたが、こうして思考を振り返るとやらなければならぬことが多すぎて、自分の力では不可能だと悟った。とはいえ、諦めきれずに金持ちへの欲望が増大したと思う。
 
 以上の結論のあとに出てきた最後の解決策は、宗教への現実逃避である。当時読んでいたファンタジーの小説「ドラゴンランス」の影響を受けたのだ。この小説、神がたくさん出てくるのである。それで死後の世界への想像が膨らんで、神はいると自分を騙し現実逃避をし始めたのだ。しかし、ここで僕の鋭敏な頭脳がまたしても邪魔をする。いや、そもそもフィクションだろ、と。
 結局死の恐怖に対する勝利は諦め、今を必死に生きようというところまでやってきたわけである。実はこの必死に生きようというのも「ドラゴンランス」の影響を受けている。なぜなら、最終的に登場人物はほとんど死ぬ話だからだ。
 印象に残った話がある。あるキャラが一度死ぬのだが、親友の葬式に出たいと神様にお願いした結果、未来にタイムスリップするのだ。葬式が終わって、さぁ帰ろうというところで怖くなって過去に戻りたくなくなって、逃げ回るうちに未来が変わってしまうという話である。結局、未来のために今から死ににいくんだ!と決意するのだが、その葛藤は思春期の僕にかなり大きな爪痕を残したと思う。 
 このころロボットには飽きていた。ゴミ屋敷と化した僕の部屋に部品が散乱していた。センサーを踏んでしまったのだろう、本来は頭を触ると反応するのだが、ずっと首を振り続ける機械になってしまった。こうしてディアコスティーニは終わった。

 皆さんは死について考えたことがありますか?僕は結構頑張って考えたなぁ…などと今更感慨深い気持ちに浸っております。じゃあなおやすみ。