うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

読書感想文 サルトル「嘔吐」

どうも僕です あけましておめでとうございますなんて言葉は許さない
常に更新され続ける現在の一つでしかないのだから!もはや過去は存在しないのである。
という感じの小説がサルトルの「嘔吐」です。
 主人公アントワーヌ・ロカンタンは唐突に吐き気に悩まされる。最初は石を拾ったときだったんだが、カフェのボーイやビールにも生まれる。もはやボーイの来ている色がわからなくなってしまう。紫であったはずなのだが、紫ではない。紫に似た何か、それ以上かそれ以下か、それが何かが全くわからなくなるのである。
 そんな彼はロルボンという貴族の伝記を書く腐れニート。たまたま一人でコーヒーを飲みに行ったときに、過去の経験を語るときに冒険になることに気づく。過去の経験を語るとき、結論に関係のあることを意識的に思い出してつなげる冒険となるわけだが、その当時の自分には結論などわからず、もっと関係ないことをたくさん経験しており、語り手の意図的な意味づけがされるから、本当の過去は既に存在しておらず、冒険譚になるわけだ。そうして、伝記を書く愚かさに気づいてしまうのだ。
 そんな腐れニートのロカンタンは美術館に行くわけだが、周りに彼の住む町の発展に寄与した有名人の肖像画が四方八方に飾られた部屋に入る。ロカンタンは肖像画の人間たちが自分が腐れニートであることを嘲っているように見えてしまう。というより肖像画の人に比べて自分があまりにもゴミクズだってことを悟るのだ。が、しかしここで急に価値の消滅が起きる。ロカンタンが肖像画を見つめ続けると、その人物がただのしわくちゃの顔色の悪い爺さん婆さんに見えてくるのである。権威や経験、彼らの宿命、偉業が全て消え去り、ただのぶよぶよのしわくちゃになったのである。
 そんな彼は今度独学者に会う。こいつは図書館の本をアルファベット順に読んでいく男で、いろんな勉強をするわけなんだけど、ちょっとした経験があってヒューマニズムに染まる。人間は素晴らしい!と力説する彼に対して、ロカンタンはその無意味さを感じる。つまり、人間を愛しているのではなくて、人間の様々な諸要因を愛しているというのだ。究極的に言えば、人間を愛しているのではなくて人間を愛しているということだ。
 最後に昔の彼女であるアニーに会う。名前が違うかもしれん。とにかく彼女はその場を演じる事に重点を置いていた女性だったが、ロカンタンと同じく実存に気づいて余生を送ることになる。そして、最後に旅立つときに、独学者がなんとショタのチンコを触る変質者だったことがバレて町中にレッテルを張られ、住む場所をなくしてしまう。そういうわけで、ロカンタンは旅立って終わり

まぁこんな感じ
つまり、人間には全く意味がないということが言いたいんだよな。カントが純粋理性批判で人間は自身の持つ尺度でしか存在を感じ取れないから、物そのものをとらえることはできないっていう話をしてるんだけど、これの強化版。それが直接人間にあてはめられることによって生まれたのが実存主義で、この嘔吐に書かれている内容。
肖像画の人たちは、街を発展させる宿命を背負い、実際に発展させてきたという権威で輝いて見えるが、実際にはただの爺であったり、人間を愛するといいつつも、人間そのものの実存を愛しているのではなく、人間の様々な後付の要因を愛しているにすぎないということになる。極めつけは彼女の演技っていう発想で、最終的にそんなものは存在しなくて、自分そのものしかないということに気づく。最後の独学者は他者が見ることによって彼は存在している場所を奪われたってことですね。

と、いったところでしょうか。意味わかりますかね?
そこで出てくる彼の名言。実存は本質に先立つ。からの、人間は自由の刑に処せられている。からの、地獄とはまなざしのことである。
そういうことやじゃあな。