うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

池袋にやってくる

一年ぶりくらいの東京。アキバから池袋へ行くため、山手線に乗る。なんだかいつもより、緑色が鮮やかに見えた。中に入ると、それは勘違いではないことに気づく。座席が新しい。背もたれがS字カーブになっていて、腰が疲れない。しかも、背中の丸みに合わせるように両サイドが出っ張っている。
うおおおおおおおおおおおおさすが東京だぜぇ!、と思いつつぐるぐる回って池袋駅に着く。

目指すは東口。かの有名な乙女ロードがあり、日本最大級の売り場面積を誇るジュンク堂丸善が並び、サンシャインがあり、ラーメン二郎もスイパラもある、遊ぶには最高の場所である。

上を見ながら東口の案内を探していると、いつもこの看板にぶち当たる。

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ISP・・・。Ikebukuro Shopping Parkの略である。
口に出して読んでみてほしい。

ISP,アイエスピー・・・・なんか、語呂がよくない。
なんだろう、GSP,Gifu Shopping Park みたいな、ちょっと若者を意識してみた、都会を意識して英語を使ってみました、という感じがする。とてもださい。妙に田舎くさい。

名古屋が無理やり観光地を作ろうとして、使いそうなネーミングセンスである。それを天下の東京、池袋が使っているのに相当な違和感を感じるのである。
元カノとデートをしたときに、散々悪口を言ったのだが、苦笑いされるだけであった。しかし、読者の皆さんはわかっていただけるであろう、変だろ?やっぱ。

それなら例えば、Uhyo Sekigun Blog 略してUSBのほうがかっこいいだろう・・・。もしくは、Uhyomi Channel Blog 略して、UCBなどのほうがよっぽど語呂がいい。

何はともあれ、世の中の英語三文字の略称は、結構語呂がよく受け入れられているのが多い。FPS,TPS,PKO,CPU,LOL等々・・・。語呂がいいだろ?最初から語呂を意識して英語名が作られているのだろうか?
冷静に考えてみれば、ISPのIは池袋と日本語だが、他の略称は英語ですね。そういうところがだささの違いかもしれません。

池袋のネカフェでやることなさすぎて、ちょっと書いてみました。
せっかく東京についたので、自分を追い込んでめちゃくちゃ書きまくってみようと思います。お題があれば言ってください。終わり。

 

TIBORがマイナスになってしまった

どうもこんばんは。

今日は銀行員っぽいことを書きます。

TIBORがマイナスになりました。

TIBORとは何か?銀行が一時的な資金不足に陥ったときに、他の銀行からお金を借ります。その利息がTIBORです。円だのユーロだのありますが、当然日本円の話をします。

 

TIBORには1W,1,2,3,6,12Mがあります。Wはウィークで週。Mはマンスで月です。

今日ついにTIBOR1Wがマイナスになったのです(-0.00818)。それで私の銀行は大騒ぎです。何故かというと、TIBORを基準にした利息で貸す方法があるのです。

スプレッド貸というのですが、基本的には当座貸越というカードローンの企業版みたいなので使います。

TIBOR+○○%というように、借りた日のTIBORを基準に銀行の利益分を上乗せした金利でお金を借りることができます。

超優良企業が低金利でお金を借りるために作られたもので、めちゃくちゃ金利が低い。0.5%とかは日常茶飯事。一般の個人が借りるカードローンが8%~12%くらいなのを考えると馬鹿みたいに安いことがわかりますね。

 

で、何はともあれ銀行の貸付の最低ラインを突き進んできたこのスプレッド貸。考案した人間たちは、マイナス金利が未来にあるなんて考えたこともなかったのです。

ところがどっこい、今やそれが当然。するとこうも考えられます。TIBOR+○○%<0%ということもありうるのではないか?と。

お金を貸しているのに金利を相手に渡すという気が狂ったことになってしまうと大騒ぎなわけでございます。

そんなわけでケインジアンの僕は上司に議論をふっかけましたが、ケインズを知らないボスには逃げられました。

悶々としながら電車に乗った僕。空いていた席に座ると、隣にいたおじさんの口臭が予想以上にきつくて、演技抜きで嗚咽を漏らしました。もう一度嗅いだら死ぬ。そう思った僕は鼻を摘まみました。

そうして、もう一度マイナス金利について考えました。

利子とは何か?それはお金の価値です。

お金は当然、物と交換できるので価値尺度として存在しています。何か別の商品と交換するとき、千円は千円なのです。

しかし、お金には本質的な価値があります。どんなものにも変えられるという価値です。これを流動性と呼びます。

ケインズはこう言います。人間はこの流動性を好む傾向がある、と。

簡単に言うと、200円のポテチと、200円玉のどちらかを選べと言われたら、当然200円玉を選ぶということです。

だって、そうでしょう?200円玉ならチョコでも飴でも買える。もちろんポテチにもできる。でもポテチは、ポテチしか無理です。飴とかチョコくらいならお菓子交換できるかもしれないけど、ノートと交換する人はいないでしょう。いたとしても探すのは大変。それなら200円玉を持っていて、文具屋に行った方が早い。

 

さて、こうしてお金にはどんなものにも変えられる価値があることがわかりました。

では今と10年後、どっちが価値があるでしょうか?人によりますが、お金を借りようとする人は、今の方がお金に価値があります。

例えば、家を買いたいと住宅ローンを借りる人。30年後、子どもも巣立ったような家庭で我が家をもって何の意味があるでしょうか?今我が家に住みたいですよね???

例えば、何かあったときに備えたい人。将来に向けてお金をちまちま積み立てている最中に、急にお金が大量に必要になったら困りますよね?5年分の貯金を前借してでも今使いたいですよね!?

こうして出来た今と将来のお金の価値の差が利子というわけです。

 

今>将来、今-将来=利子

というわけ。

そこで、インフレになって今まで200円で買えたポテチが400円になったとすると、今のお金の価値が下がる。いつまでもインフレなわけがなく、将来デフレになる確率が上がるので、将来の価値も上がってしまい、総合的に利子が下がっていく。

さて、ケインズはこの時、流動性の罠というのを想定していました。インフレになりまくっても、交換できる機能がお金にある限り、利子はそれ以上は下がらない!と。

 

でも下がっちゃったんです。流動性の罠突破しちゃったんです。

さぁなんででしょう!?というのが本題。

このころには僕の視線の先には反対側に座るJKの生足がありました。斜め右前には気が狂ったような声でしゃべるキモータがいました。いつも通りの電車でした。

まぁこんだけ長々と話したんですけど、今回のは簡単ですね。

-0.00818%とかいう微々たるものですからね。

貸し手:お金を持つ維持コストを手放したい、どうせ貸せないし 借り手:1週間借りたって金利低いし、まともに利益がないからいらない。

という両者の考えが一致してマイナスになったんじゃないでしょうかね。

はぁつまらない結論でしたね。

 

もっとマイナスになるとしたら、もっと日銀が金を出し続けて、やりすぎで金融引き締めになりそう!ってなったらマイナスになりそうですね。だって今の価値めっちゃ低くなるじゃないですか!!!!

 

そんなわけで疲れたので寝ます。 終わり。

フーコー流の考え方を一瞬で説明する。

読書感想文の感想に多大な影響を与えているフーコーさん。今回は読者が感想の理解に苦しまないように、こういうこと考えてるんですよ!というアピールをしておきたい。

画像を使えと言われたので下に貼っておく。こいつがフーコーだ。日本の寺で修業したこともあるらしい。頭の話はやめたれw

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大袈裟なタイトルだけども、言いたいことはたった一つ.。

 

論理は無数にある。現代の常識は、たまたま大半の人に受け入れられている論理にすぎないということである。

例えば、いつぞやの障害者施設で何人も殺した男が、「障害者は生きてるだけで社会の邪魔だから殺した」という論理を語っていた。

これも論理としてアリなのだ。正しいのだ。彼にとっては証拠さえあったのだ。

ある日、「発作で溺れていた被害者を助けたが、感謝されなかった。大事にならなかったとはいえ、せめて心配の一言があると思っていた。」らしい。

この言葉だけ見ると、最初は常人だということがわかる。

どうして変わったのか?働くうちに「障害者は生きているだけで社会の邪魔」という論理を裏付けする経験が山ほど積み重なったのではないだろうか?

と、いうように世の中の論理は無数にあるし、それを正当化する証拠もたくさん出てくる。多数の人間が同じ考えを持っているという事実そのものが、一つの証拠になるので、常識的な考えは正当化されやすい、というだけの話である。

フーコーはここから、今の時代の論理は何なのか?を研究していくわけですね^^それ以上知りたかったら、本読んでください^^

 

フーコー的な考えでニュースや新聞を見ると、すごく発想が偏ってるのがよくわかります(右翼だの左翼だのという意味ではなく)。

記者としては正論を叩きつけて批判していると思っていますが、実際は相手の論理が全く傷ついてない。そういう肩透かしな記事、ニュースで溢れているのがよく実感できると思います。

障害者殺人事件でも、知識人が「これは人として許されることじゃない!」などと言って論破した気になってますけど、現状障害者が邪魔で人を不幸にしている証拠が彼の手に握られてますから、これを否定する証拠を突きつけないと潰したことになりません。

 

みなさん柔軟に考えていきましょうや^^手抜きですが終わり。

僕の社会人生活

 今日アマゾンプライムで「RELIFE」の完結編を見た。

 社会人生活でトラウマを抱え、ニートになった主人公が、若返りの薬を飲んで一年間限定で高校生活、青春を送るという話である。

 本編を見たのは学生時代だったから、あぁはいはい、という感じでさらりと見ていたんですが、今見ると心が痛む^^;

 社会人になってから碌なことがない。たぶん普通の社会人は、慣れてきて責任のある仕事を任されることに徐々に満足感を覚えていくのだろう。しかし、僕はどうもそこまでなり切れない。

 朝起きると、食事をとる。特に月曜日は喉を通らない。外回りを辞めたところでこの習慣は健在である。今は電車で1時間くらいかかる場所に通勤している。今日の仕事が頭の中をぐるぐると巡るのが辛いので、逃げるように眠るのが日課だ。

 職場につくと、「おはようございます」と全員に言って回る。多少声を張らないとまた文句を言われるので、力の無い大きな声で挨拶をする。とりあえず新聞を読むのだが、この時から既に気が抜けない。急に呼ばれて雑用を申し伝えられることがある。急に先輩が掃除し始めたりすると、静かに寄って手伝いをしなければならない。

 その業務前の無駄な儀式(約45分)を過ごすと、今度は朝礼。ここでも挨拶の儀式があるのだが、声を張らないと文句言われるので、力の無い大きな声で挨拶をする。

 終わると、開店のシャッターをあける。9時に少しでも遅れると、客に怒られるし、早いと上司に怒られるので、パソコン画面をちらちら見ながら朝の準備。まずここで無駄に精神を削られる。そして開けるときも当然、力のない大きな声で挨拶。

 朝のルーティンが1時間くらいかかる。半分くらいは印鑑押すだけ。一つでも押し忘れると当然怒られる。意味もわからない書類に機械的に押すこの印鑑に何の意味があるのだろうか。既に訳が分からない。

 仕事をしていると、急に呼び出される。これはマニュアルのどこにあるのか?と聞かれる。そんなものは知るわけがない。マニュアル大嫌い人間の僕が、同じ通りに仕事しているわけがない。しかもマニュアル自体の作りも悪い。前提知識のない人間が見たところで何一つ役に立たない代物である。

 接客をすれば、お客さんがわずかに書き間違えたところで訂正印をもらう。訂正印で済むならいい方である。書類によっては印鑑を押し損たり、書き間違えるともう一度書き直しである。

 当然向こうは常人なので、なぜ書き直しなのかさっぱり理解できない。表情が曇る。僕もこんなのはくそったれだと思っているので、胸がつまる。

 書き直しだということに気づかなかったこともある。その時は謝罪して、返信用封筒を送り付けてもう一度書いてもらった。往復で164円。プラス僕が郵送するために要した時間の給与。果たしてそこまで費用を垂れ流してやることなのだろうか。

 などという針の目を通すような仕事をしつつ、ミスをポロポロして怒られ続ける。どれも本当にゴミみたいなミスである。それをミスったところで大勢に影響なし。誰が困るわけでもない行程である。

 15時になるとシャッターを閉める。遅いと上司に怒られ、早いと客に怒られる。じゃあてめぇがやれやwと何度思ったことだろうか。防犯の一環で店の見回りをすることもある。くだらないことでやり方にケチをつけられる。じゃあてめえがやれや(二度目)

 普通の仕事でも、やり方にケチをつけられる。結果は同じだがやり方がダメだと言われる。どうしても自分のやり方を踏襲しないと気が済まないキチガイが銀行には多い。じゃあてめえがやれや(三度目)

 いったん日常業務の締め作業をして、あとは残業。

 一日を通して、周りの動きを常に気にしなければならない。コピーだの雑用っぽいのがあれば全て「やりましょうか?」と声をかけるのがマナーである。そうしないと文句を言われる。

 彼らの中ではそれが常識なのである。どれだけ歪であっても、そこに疑問点を持たない。想像力の欠如が凄まじい。

 世間的にはマニュアル人間は悪だとされるが、銀行はそれが一番奨励される。機械のようにルールに従うロボットこそが求められる姿である。別に想像的な仕事がしたいというベンチャー的な考えがあるわけではない。融通が全く利かないことに吐き気がするだけである。

 ここで仕事をしていると、思考を失った人間になりそうである。職場を見ていても皆思考を欠いている。牢獄で毎日運動している受刑者とやっていることは変わらないのだ。

 僕は果たして何の為に生きているのでしょうか。非常に退屈、あぁ死にたい。

 じゃあな。

 

素晴らしき食レポ 第二回

今週は本を読み切れずに読書感想文を書けないので、食レポやりまーすwwwwww

これからは毎日じゃなくて毎週更新していくつもりなのでよろしくね!!!!!!!!!!

一週間あればネタ一つくらいは出ますよね・・・出ませんでした!w

なので食レポしますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

今回の食レポはこちら!じゃじゃん!「堅あげポテト梅味」
季節限定和歌山県産梅100%の梅肉パウダーが使用されているとのこと。

早速、実食!

ばりばりむしゃむしゃ・・・ばりばりばいらおいあjろいあうぇjりおあjりおあjりおあjむしゃむしゃむしゃぐしゃばりぼりいいいいいいいいい

 

うーんwうまい!

梅はやっぱり安定ですね、あさりだのわさびだのとは違って普通に合う。風味としてはわざびにあさりでもあったように、しっかりしています!!

うーん酸っぱいwでも、食べた後口の中とっても爽やか!

後味がいい!!こんなこともあるんですねぇ~w

梅の宝石箱や~www

Todays うひょキンズポイント!!!!!!とぅるるるるるるるるるるるるるるるるるうっるうるるrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

40点!!!!

 

うんうまい!堅あげポテトとしてはうまい!だが、所詮堅あげポテト!元も子もないが、やっぱり所詮は堅あげポテト!!!というかそうしておかないと、インフレが止まらなくなって200点とか出さないといけなくなっちゃうので、調整します!!終わり!!!!!

 

ではなく!!!!!!

今回も二段構成!

堅あげポテト牛タン塩レモン味!!!!!!!!!

また怪しげな味ですねぇ絶対まずい

早速、実食!

ばりばりむしゃむしゃ・・・ばりばりばいらおいあjろいあうぇjりおあjりおあjりおあjむしゃむしゃむしゃぐしゃばりぼりいいいいいいいいい

 

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんんんんんんんんんんんんんんんんんん

うまい!!!!!!

食べただけで焼肉キングを思い出しました!焼肉の匂いが鼻を巡ります!!!そしてかすかに効いてくるレモン味!

まさにタン塩にレモンをかけた味そのもの!!!

そして、堅あげポテトは堅いんです!タン塩ももちろん堅いんです!!!!ちょうど食感もマッチしていて、手軽に楽しめる牛タンってかんじですね!

芋っぽさが全くない!!!!!ここまで原作を再現した味はあったでしょうか!?いやありません!!

焼肉いくまでもない、匂いがつくのが嫌だ!そんなあなたにお勧め!!!お菓子だから手軽!かつ、匂いなんてつくわけがない!!!!おいしいです!!!!!!

 

Todays うひょキンズポイント!!!!!!とぅるるるるるるるるるるるるるるるるるうっるうるるrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

 

70点!!!!!!!!もう100点越えも辞さない構え!!!諦めました!低い点数なんてつけられないんです!ミシュラン食べたら一万点つけます!!!それくらい低い点数をつけるのが申し訳ない美味しさでした!!!!!

 

はい!今回は二つとも当たりでした!!次回もお楽しみに!ばいばいにーwwwwwwwwwwwwwwww

 

読書感想文 島崎藤村「破戒」

 どうも、僕です。

 今回は島崎藤村の「破戒」について書きます。これで新潮社発行部数トップ10を攻略しました。いろんな話がありますが、こんなに社会派なのは初めて読みます。感情を扱う小説か、物事を分析する学術書しか読んだことないので、中間の小説って意外と少ないんですよね。

 

 <要約>

 今回の主人公は瀬川丑松君。彼の一族は代々穢多であります。ちなみに穢多は一発変換できません。規制かかってますねぇ・・・。職業は小学校の教師。父親から言いつけられた自分の身分を明かしてはならないという戒めを守っています。ちなみに父親は誰にもバレないように山奥で静かに、牧場を営みながら暮らしています。これもすべて丑松のためです。

 さてこの話、住んでいた宿で金持ちのおっさんが穢多だとバレて、村中の人、宿の主たちから罵詈雑言を浴びせられ、追放されるところから始まります。

 自分もそうなるかもしれないと恐れた丑松君は、蓮華寺に住むことにしました。そこの女将さんや、同僚の銀之助、先輩教員の敬之進と、いろんな人に囲まれながら暮らします。敬之進の娘のお志保に恋したり、なんだかいろいろ進みます。

 そんな丑松の尊敬する思想家が猪子蓮太郎。自分が穢多だということを公表しつつ、思想を本にして広めている男です。丑松は身分を恐れない、堂々とした態度を尊敬し、心の中で先輩と呼びます。

 紆余曲折あって、丑松は父親が死んだとの連絡を受け、故郷に帰ると、学校でも見かけた高柳という政治家を見つけます。また、道中猪子蓮太郎と今度の選挙に出る市村弁護士に会います。先輩と意気投合する丑松。自分の身分を打ち明けて、もっと深い付き合いになりたいと思います。

 しかし、叔父から最後の父の言葉が「忘れるな」だったことを聞き、先輩に告げようとする度に戒めが心を捉え、話すことができません。

 葬式が終わり、帰る途中、高柳が金のために穢多の娘と結婚したことを知ります。選挙で困るので隠しており、それを許せん!と先輩は憤るのでした。その怒りは丑松にもぶっ刺さり良心の呵責に悩まされます。

 さて、蓮華寺に帰ると妙な噂が立っていました。丑松が穢多だというのです。いろんな追及を受けてついに寝込む丑松。この際さっさと打ち明けてしまおうとかとも思います。一方、お志保へ募る恋心。銀之助は最近の陰鬱な空気の原因を、この恋だと考えます。

 またもや紆余曲折あって、市村弁護士と猪子蓮太郎が村にやってきます。そして、高柳の事実を吹聴したことで、先輩は殺されてしまうのです。

 激しい後悔が丑松を襲い、ついに全てを打ち明けることを決心します。学校中の人に泣きながら謝りながら告白し、お志保にも土下座して伝え、一生会うことはないだろうと告げます。告白を聞いた校長は丑松の追放を決めます。元々丑松はここを去る予定だったのですが。

 絶望しながら、猪子先生の葬儀についていく丑松。しかし、そこから転機がやってきます。銀之助は友情を捨てずに別れの手伝いをします。

 そして、金八先生ばりに生徒に大人気の丑松。生徒たちが先生を辞めさせないで!と校長に直談判します。最後は学校の命令を無視して、お別れの挨拶をしに丑松の元にやってきます。

 穢多だと諦めたお志保への恋心。彼女は身分は関係ないと、丑松と結婚する約束をします。

 失った職の代わりも見つかります。最初に追い出された大金持ちが、今度テキサスで新事業を始めるというので、雇ってもらえたのです。

 俺たちの人生はこれからだ!というところでこの話は終わります。

 

 <感想>

 大変陰鬱な話でございました。が、あまり実感がわかない、感情移入ができない。それもそのはず、もう僕には穢多への差別意識微塵もないからです。言葉というのはそれ自体では記号でしかなく、実体と結びつかなければ、ただの文字の羅列でしかないのです。僕にとっては、もはや記号そのものでしかないわけですね。生まれてこの方そういった経験が全くなかったので、指す対象が欠如しているのです。

 などと最初から哲学的な話をしましたが、この本を読んで穢多について考えたので聞いてください。

 「穢多」は江戸時代に作られた農民より下の身分。彼らの仕事は家畜の処刑。毎日血にまみれる彼らは徐々に生理的に嫌われるようになります。この差別構造を幕府は利用して農民の不満を抑えていたとも言います。

 「破戒」では「穢多らしい」という言葉が出てきます。顔つきが陰鬱だったり、体格が不健康そうだとかいう特徴があるというのです。丑松に疑惑がかかったとき、銀之助はこの「穢多らしさ」がないことを理由に疑惑を否定します。この「穢多らしさ」というのは私の人生でも経験があります。

 岐阜の養老は元穢多の人間が多く住むことで知られています。家畜の処刑をやっていたこともあって、あの辺りは高級肉が買えることで有名だったりします。たまたま何かの拍子でその話を母親としたことがあります。その時、母は「あそこの人たちは様子がおかしい」と言ったのです。当時の僕は母が何を言っているのかわかりませんでしたが、この小説を読んだとき、あぁこのことかと思ったわけです。ちなみに僕の両親は相当リベラルなので、部落差別がどれほど根付いているかがよくわかります。

 差別というのは何か一般よりも異質なものが、被差別側になければ成立しません。黒人差別はわかりやすいもので、身体的特徴から差別が始まっています。「いじめ」に関しては、より個人的な感情で発生する場合もありますが、社会構造において一定の集団を差別するためには、より包括的な特徴(肌が黒い)といったものが必要となります。そうでなければ、差別を正当化できないからです。

 そこで穢多にも、穢多らしさという特徴を作り出します。ところが、この穢多らしさというのは、肌が黒いよりも非常に抽象的です。陰鬱な表情なんて、僕も含めた世の中のインキャは全員当てはまってしまう。全員部落だとでもいうのでしょうか?この曖昧さこそが部落差別の大変醜いところであります。

 日本はほぼ単一民族国家で、人種的に差別することは基本的に不可能です。ところが、穢多という人種を作り出すことで、人種差別を可能にしているのです。この小説にも「穢多という人種」という言葉よく出てきます。

 身体的特徴による社会的な被差別集団がいない日本では、人間の思考によって、より曖昧な特徴が作られ、被差別集団を作り出すことに成功してしまったのです。

 ところが、そんな曖昧な定義で出来た穢多は、今回の丑松のように普通の生身の人間関係によって消滅してしまいます。よくネトウヨが言う韓国人はダメだけど全部じゃない、っていう理論と同じですね。社会的集団を蔑視する際には、例外もあるという逃げ道を作ることで矛盾を解消させるのです。

 猪子蓮太郎は自分の身分を明かすことで、教師をやっていた高校から追い出されました。それ以降、社会的に自分の身分を公にすることで、逆に表立って批判することができなくなったのです。隠していたり、引け目を感じている様子があるからこそ、差別が正当化されるのです。特に日本人は公然と差別をすることができない民族なので、公にして自信満々なのが実は一番の対抗策だったりします。

 また、日本でしか通用しない特徴を持った差別なので、丑松のように他国に行けば当然なくなります。閉鎖的な、村的な、狭い世での差別だからこそ通用する方法です。

  部落差別は人為的に作り出された曖昧な人種を元にした、最も人間の醜い行いだと私は思います。この作品が発行された当時は、もっとリアルに読者の目に映ったことでしょう。現代は少なくとも僕の周りでは、そうでもないので社会は着実に改善されていると思います。今後も差別は消えるといいと思いました^^

 以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

読書感想文 武者小路実篤「友情」

 どうも、僕です。

 今回は武者小路実篤の「友情」について書きます。ちなみにこの作品も新潮社ランキングトップ10です。「破戒」はどうしたの?と聞きたい方もいると思いますが、ちょっと待ってください!!!!!!正直エタだのヒニンだの(一発変換できない)は興味ないんです!今目の前にその人らが、身分打ち明けたとしても、それがどうした?って感じですからね。世間の人がどうかは知りませんが。

 

 さて、要約。

 野島君は超絶インキャの売れない作家。ある日、友人の仲田の妹である杉子に恋をします。あまりに好きすぎてたまらない野島。しかし、仲田は妹は嫁にやらん!と今まで求婚してきた相手を晒し上げたりする始末。それで誰にも相談できず悶々としていたのですが、とうとう昔からの友人大宮に打ち明けます。

 募る恋心。モテモテの杉子に近寄る男たち。早川というイケメンが擦り寄っている時は嫉妬で狂いそうな様子でした。そんな中、大宮と妹の武子は杉子に対して野島のすばらしさを一生懸命伝えます。ステマというやつです。

 努力の甲斐あって、杉子と徐々に打ち解けていきます。一方、大宮は杉子に対して冷たい態度を取ります。そりゃ友情ですからね、あんまり近寄られて、勘違いされても困りますからね。

 とにかく杉子との接触に一喜一憂する野島。大宮の方が魅力的で、嫉妬したりしますが、友情との板挟みでいろいろ悩みます。イケメンチャラ男の早川までやってきて、野島はもうどうしようもありません。

 そんな中、大宮は突如ヨーロッパ旅行を決断。見送りの際、野島は杉子が大宮を愛していることに気づいてしまします。

 やけくそになって求婚を申し込む野島。当然ふられる。本人にもう一度トライ。もちろんダメ。

 そんな中大宮から、手紙では言えないことを書いたから、雑誌を見てくれと言われます。

 それは大宮と杉子の手紙のやり取りでした。杉子は友情より私をとってくれとせがみます。大宮は最初の方、一生懸命断ります。すると杉子は野島のことを生理的に無理だ、大宮がいなかったら、早川と結婚していた、とか、絶対無理だ!などとぼろくそ叩きます。何回かやり取りが終わった後、本当は大宮も杉子のことが好きだったことを手紙で打ち明けます。

 なんだこれはああああああ!野島は大宮からのお土産であるベートーベンのマスクを地面にたたきつけて割り、発狂します。そして、インキャ小説家道を究めていくのです。孤独を感じながら。

 

 <感想>

 インキャにはつらい結末でしたね・・・。野島よりも大宮の方が小説家として成功していて、健康的な体をしていて、運動もできるんです。ちょくちょくでてきた早川も、イケメンでコミュ力高め、運動もできます。

 一方野島くんは、半分冗談で神の話をしている途中で、超絶早口で自分の考えを語ってしまうヤバイやつ。インキャにインキャを重ねたガイジなんです。そりゃ好かれません。

 大宮と野島の友情なんかありますけど、結構恋愛でぶちこわされるわけですね。どっかで見たことあるな?と思ったそこのあなた。そう、これは夏目漱石の得意分野なんです。「それから」はまさに友達の好きな女の子を主人公が奪うという展開でしたが、「友情」は奪われる側の苦しみを書いています。

 どっちかというと僕はインキャなので、「友情」の方がよくわかる。友情が大事な奪う側なんてのは、僕には全くわかりません。「こころ」くらいエゴ剥き出しな人間なんでね・・・。

 奪われる側、しかも友人に奪われるというのはなかなか来るものがあります。しかも、好きな子にぼろくそ叩き潰される野島くんの気持ち・・・。涙なしには読めない小説ですね。

 結局ね、人間エゴなんですよ。友情ってのはあくまでも理想的な概念でしかない。本当に恋愛という状況に置かれたら、概念は消え去るのみ。全てが消えた野島は完全な孤独のうちに沈みます。友情も恋人もない。もはや頼れるのは母のみ。この妙な孤独感は僕もよくわかります。人生なんか常に孤独なんだなぁってしみじみと感じましたね。

 終わり。