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つまりそういうこと

読書感想文 岡本太郎「今日の芸術」

どうもこんばんは、僕です。

僕も芸術を知りたくなったのでこの本を読みました^^

 

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岡本太郎と言えば、「芸術は爆発だ!」「何だコレは!?!?」などといったキチガイ名言が有名な男です。そんな奴の書いた評論なんてあてになるのか?と思いつつ読み始めましたが、意外とちゃんと考えている。調べてみると彼は一応東京芸大に入っているから、教養があるようだ。要約していくぞ!

 

第一章 なぜ芸術があるのか 

というくっそ深いタイトルから始まるこの本。完全に三島由紀夫と一緒。いろんな娯楽があふれている中で、心の中は虚しい。その虚しさを埋めるのが芸術。創作だというのです!現実世界に対してたくましく自分の力で作り上げるのが芸術だ!そうだ。

 

第二章 わからないということ

わからないんですね。芸術って。自由に絵を描いてみてくれ。子どもが絵を描いているのを見てくれ。太陽は赤く、丸の周りに線がハリセンボンみたいに引かれている。みんな同じものを書いている。皆、太陽を描けと言われると同じものを書いてしまう。これをこのおじさんは「八の字」文化と呼んでいる。八の字が富士山を表しているとみんな思うからだそうだが、正直我々現代人にはなじみが薄くよくわからない。太陽の話はわかった。

で、現代はその八の字に対抗すべく、抽象芸術とシュールレアリズムがあるといいます。論理を超えた何かを表現しようとした結果だそうだ。

 

第三章 新しいということは、何か

詳しい歴史の話が続く。大昔は教会中心だったから宗教画があって、絶対王政の時代では王様の絵が流行って、革命が起きてからはゴッホみたいな誰でもない絵が流行る。常に芸術は新しいのである。

日本人は日本らしいという言葉に騙されて、現代芸術の新しさを完全にシャットアウトしているがそれは糞野郎だというのが太郎の言いたいことである。

 

第四章 芸術の価値転換

芸術はここちよくあってはならない、芸術はいやったらしい、芸術はきれいであってはならない、芸術はうまくあってはならない。

現実に真っ向から対立して描いた絵は、心地よいものというより不快感が生まれるらしい。ピカソの絵は綺麗じゃないけどいやったらしい。ゴッホの絵は当時狂気じみていると言われていた。そう、芸術こそはいやったらしいのである。

そして芸術はきれいだったりうまくあってはならない。綺麗に絵を描くことは、長年の修行がいる。綺麗に人を描くことは技能である。が、へたくそでも心に響く絵は芸術なのである。岡本太郎に言わせれば、うまいのはただの技能であって、心に響くのが芸術なのだ。

 

第五章 絵は全ての人の作るもの

封建時代は綺麗に王様や殿様の絵を描くことが大事だったし、そもそも見せるものではなかった。だってピカソみたいに王様描いたら処刑ものでしょう?だから、雇ってくれる少数の人が満足のいく絵を描くことが非常に重要だった。しかし、革命が起きた後は商人の時代がやってくる。すると、買い手が一気に増える。しかも王様みたいにずっと雇ってくれるような人は消えてしまった。結果として画家は自由にいろんな芸術を作ることを強いられる。

セザンヌゴッホゴーギャン・アンリルソー・ピカソみんなへたくそ素人画家。だけど認められている。これが新時代の幕開け、全ての人が作るものに変わったのである。

ところが、今の芸術教育は八の字に固まっていて自由がない。これじゃあ芸術どころではない。から自由にしましょう、って話。

 

第六章 われわれの土台はどうか

最後は日本文化の話。お茶や歌舞伎、能だのは歴史を通じて受け継がれてきたものをひたすら繰り返し、逸脱すれば邪道であり、一生その仕事をやらせてもらえない。でもフランスの芸術は常に新しいものへ進んできて、常に現代を映してきた。この差がうんこだという。しかも、こういった芸能は一般庶民がやろうとすると非常に垣根が高い。実際、あの人たちは別の世界の人間だ!と思っている人間が多いだろう。これを岡本太郎は閉鎖的で、日本の発展を妨げていると批判する。

こうした背景を元に日本的モラルが形成されている。謙譲の美徳があって、自分がやると公言すると頭おかしいと言われる。たった一人でやろうとするといろんなところから足を引っ張られる。外国人が褒めてくれれば一流だと思う等々。

くそったれだ!でも芸術の分野で少しずつ抵抗していこう!ということでこの本は終わる。

 

感想

この本を読んで、僕はとりあえず絵を描いたが、ピカソのような絵になってしまった。僕にとっての八の字はピカソだったのである。それを更に乗り越えて自由に描こうとするともう何が何やらさっぱりになってしまい、得体のしれないものになった。自由に描くってこんなに難しいものだと感じました。

また、ピカソとかの現代アートの意味が少しわかった。僕はゲルニカの偽物を見たことがあるが、確かにいやったらしかった。どっからどう見てもへたくそなのであるが、なんだか気持ち悪いのだ。なるほど、芸術は「いやったらしい」。僕が小説を読むとき、面白かったと思う作品もやっぱり「いやったらしい」。大江健三郎万延元年のフットボールなんかは本当にいやったらしい。日本人が読むと吐き気がする作品だ。「いやったらしい」言葉のセンスが素晴らしい。文豪でも目指してはいかかだろうか、と勝手に思う。

歴史について述べているところは、ただただ勉強になった。ここでもやっぱりフーコーが頭を過る。言葉と物が結びついていた時代から、人間の時代に変わったというものだ。綺麗な絵が売れていた時代の絵を見ると、全てに意味がある。宗教画で言うと、ユダが金貨をもっていたり、貴族なら紋章がついている。ところが、ピカソには意味がない。ただいやったらしい。人間中心主義になることで、概念と人間の空隙の不明瞭なところが芸術の対象となっているのだろう。岡本太郎が言う芸術は現代を映す鏡という発想も非常に人間主義的である。現代を映す絵を描いた直後にすぐ新しい人間が生まれ、そこに対する芸術が生まれる。こうして芸術は完全に人間を表すものではないが、一方で表すものとして顕現する。命とか労働とか言語と同じ流れだ。

そして、芸術は伝統によって邪道だとか言われているのを聞いて、僕は小説に対して邪道という概念を用いていることに今更気づかされた。僕は芥川賞の作者について何も感じられない小説は大嫌いである。だが、これが現代なのかもしれない。そういう小説の形もあるのかもしれない。と一回振り返ってみたいとは思った。コンビニ人間をあえて再評価するというふざけた読書感想文を書き始めたら、ぜひ読んでほしい。

最後に日本人論についてだが、こういう人間が書いているのは非常に貴重である。現代の新書の日本人論は売ろうとして適当なことを言っているから当てにならないものが多い。だから、日本人論の書かれた本は新渡戸稲造しか読んだことがない。あれはかなり政治的な要素が強かったが、こっちは芸術的な意味が強い。歌舞伎やお茶といった伝統芸能から出発して、日本の閉鎖性を指摘しているのは非常に面白い。

読書でもこれは当てはまる。今の時代の読書は「頭がいい人」の専売特許と思われている。だが、ふたを開けてみればそうでもない。夏目漱石はただの恋愛小説だし、三島由紀夫はひたすら今を生きろ!!と叫び続けるだけ。

結構本を読んだと思っている僕は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」はそんなに面白くないと思うし、三島由紀夫の「鏡子の家」はつまらないと思う。そこに何か学識だの芸術だのを振りかざす気は全くない。ただ、楽しいかつまらないかなのだ。結局のところ、読書をしている人間なんてそれぐらいしか考えていない。全く頭を使っていない、ただの二項対立。猿でも出来る。だが、勝手に人は考える。読書は「頭のいい人」、「教養人」の娯楽だと。これはさっきの歌舞伎やらお茶と全く同じだ。非常に封建的で限られた人のものだという意識が勝手に作られてしまっている。なんと悲しいことか。全部芥川賞のせいなのは明白である。くそったれ、ぶっこわれてしまえ。

 

何はともあれ、僕は芸術に目覚めたので液タブを買って、芸術を作りまくろうと思う。以上だ。