皆さんは縄文土器をご存知だろうか?
まぁそりゃ知ってると思う。以上の通りだ。
土器とは何か?食べ物を焼いたり煮たりして食べるための、謂わば鍋である。
縄文時代の我々の祖先は、狩猟生活を営み、獲った獲物を調理した。それまでは焼くことしか出来なかったのだから、煮るなんてのは画期的すぎる発明であった。などなど、中学の歴史で学んだ者は多いだろう。
しかしよくよく考えて見てほしい、煮て食べる用途にしては形がおかしくないか?
器を包むように取っ手がぐるっと内側に巻き込まれている。煮物を食べようとすれば、間違いなくひっかかる。
更に教科書には、この縄の模様について強度を高める役割があったと述べている。しかしよく考えてほしい。縄つけるだけならそんなに飾る必要あったか?と。
弥生土器を見てほしい。
なんと洗練されたフォルムだろう。手は引っかからない、変な模様つけてない。食べやすい!
何故縄文土器が使いにくい形だったのか?といえば、自然という神に祈りを捧げるためだったらしい。
と、岡本太郎の受け売りをひたすら続けた私であるが、これを見ていると歓送迎会を連想せざるを得ないのである。
歓送迎会とはなんと無駄なことか!仲良く飲んで話して、仕事を円滑に進める役割があるそうだ。所謂飲みニケーションである。無礼講であり、本音を言ったりする場だそうだ。
しかし、実際には無礼講など存在しない。言いたいこと言ってる奴見たことない。本音を言った奴を見たことがある。その時、周りはどう言ったか?「無礼講やけど…」である。この「…」にはやめろやボケという言葉が含まれている。
さて、本題に戻ると現代の縄文土器たる歓送迎会は、その進行において数々のルールがある。普通に飲んで話せばいいのに、上司に注ぐとか、最初は挨拶、乾杯の音頭、最後は締めの一言と言ったものだ。それが円滑なコミュニケーションに何の意味があるというのだろう。
歓送迎会は来た人を歓迎し、出て行く人を惜しむ会だ。
話は同じである。来た人なんて普通歓迎する。飲まなくてもな。出て行く人は惜しむ。飲まなくても、だ。
しかも、来る人は歓送迎会でもし飲まないと既に仲良くしてもらえない可能性があるとまで来た!
完全に縄文土器なのである。余計なものを大量につけすぎている。僕は先進的な弥生人だから弥生土器のような人間関係を築いていきたい。岡本太郎は縄文土器を芸術であり、なくてはならないとしている。それはそうだ。しかし、歓送迎会は芸術ではない。時代錯誤で封建的な儀式なのであり、完全に無駄である。
また縄文土器には自然に祈るためという別の深い目的があったが、歓送迎会には全くない!やっぱり無駄じゃねえか!
何より、幹事の俺がめちゃくちゃ怒られながら、文句言われながら予約とれ、段取りしろと言われるのはもう我慢ならない。あのクソ縄文人、劣等人種ジャパニーズは本当にクズしかいない!許せねえ!全員しね!滅びろ!
最後はただの愚痴になってしまったが、以上だ。