うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

「岐阜で熱中症患者5人死亡」の現実を県民の僕が語る

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 どうも、僕です。今回は岐阜で熱中症患者が5人死んだ話について語ります。どんなニュースか知らない皆さんのために、ネットの産経ニュースから転載しますとですね

 岐阜市の「Y&M 藤掛第一病院」でエアコンが故障した部屋に入院していた80代の患者5人が死亡した問題で、病院がエアコンの定期点検やメンテナンスを実施していなかったことが31日、市への取材で分かった。市は病院に対し、業者に依頼するなどし定期的に点検するよう指導した。

www.sankei.com

 まぁこんな感じですね。

 最近は特に公立小学校のエアコン問題で大荒れでした。猛暑なのにエアコンつけない!小学生が苦しむ!とか、耐えることで強い人間に育つ!といった論争がバチバチやってましたよね。東京と地方の格差まで問題になって、ついに国が全部にエアコンつけるとまで言い出しました。

 そんな中、この事件が起きてまたもや大荒れ。というよりは、最近平和すぎてマスコミが報道することないんですよね。だから、熱中症でこんなに大騒ぎになってるんです。

 

 

    ですが、県民からすると、「まぁそうだよね、仕方ないね」くらいの感覚なのです。なぜならこの病院は現代版姥捨山だからなのです。

 そもそも老人は年をとると、一人で生活できなくなって老人ホームに預けられます。ところが、さらに死にかけて動けなくなると治療もしていかなければなりません。でも老人ホームは病院ではないので、医療行為ができない。老人ホームに預けられないとはいえ、家で介護するわけにもいかない。

 こうした事情から、最終的に本当に死にかけの患者を収容する「Y&M 藤掛第一病院」のような病院が設立されているのです。入院している患者は治る見込みはありません。親族からは入院費かかるし、早く死なないかな、程度にしか思われていないのです。本音と建て前がありますから、建て前上は病院で治して元気になってほしい!ということでしょうが。

 姥捨山だということは地元の人間は皆知っています。皆知っているということは病院側も、そういう役割を背負っている自負があるのです。だから、エアコンなんてつけないのです。治療する気がないから、早く死んで次の捨てられた人を収容しなければならないからです。それが費用を払う顧客の意思でもあるのです。

 じゃあなんで今回問題になったの?ということなんですが、実は告発したのが成年後見人、つまり第三者だったのです。当事者の親族からは迷惑千万でしょう。さっさと殺してほしいし、死んだら死んだで今更エアコンだのと文句を言う気はない。ところが客観的にはやはり許されざる行為なので告発したというわけです。

 岐阜にあるのだから、東京にはもっと多くの姥捨山があるかもしれません。全国どこにでも姥捨山はあるでしょう。

 去年、障碍者施設で老人を大量に殺した奴も過去に「溺れかけたお婆さんを助けたけど、親族はすごく冷たい眼をしていた」といった経験を吐露していますし、現実社会には「高齢者の処理」に苦心する人間が大量にいるのではないでしょうか?

 

 ミシェル・フーコーは「監獄の誕生」において、病院は「身体的な異常」によって「社会不適合者」となったものを隔離する設備であると主張しました。この「身体的特徴」は感染症だけでなく、今回のように老衰に伴って「社会不適合者」となった人間も含まれるでしょう。

 そしてどうしても治らない人間は、社会の認識の外で密かに抹殺されていくわけです。つまり正常者の認識から外すことで将来自分もそうなるという意識を希薄にしつつ、「人道的な」入院という方法で正常者の負担を減らして抹殺するのです。こうして社会の機能を阻害しないように、人間の生を調節する機能があるわけです。

 だとすれば、高齢化社会の問題の根底にあるのは、彼らをどう邪魔にならないように殺すか?という点になるのです。社会保障費が財政の負担になっているのにやめられないのは、廃止した後、老人が正常者の認識の中に入る形でのたれ死ぬことになるからです。

 また、孤独死の問題も勝手に死なれると、住んでいたアパートが使い物にならなくなったりと経済的影響が大きい。親族が見捨てたような人間をどうやって葬儀するのかも難しい。

 そう考えていくと、今回のような病院は非常に機能性に優れている。社会保障費は姥捨山の運営費として効率的に使われる。延命治療の費用として使われては社会的に損失になってしまうからだ。一方、かろうじて親族とのつながりを維持させつつ、死の発見が早いため処理も容易。

 以上の通り、社会の機能としてこの姥捨山は非常に有効なのです。


 だから、この病院の問題も今は顕在化していますが、解決することはありえないでしょうし、静かに増え続けるかもしれません。暗黙の裡に社会に必要とされているからです。

 非常にグロテスクな本音の世界は確かに存在しているのでしょう。はっきり断定して顕在化すると、人は反発しますが、本音は違う。

 全く持って吐き気のするような社会で、僕はもう少し生きなければならないと思うと非常に悲しい気持ちになるのです。

 

 終わり。