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つまりそういうこと

読書感想文 島崎藤村「破戒」

 どうも、僕です。

 今回は島崎藤村の「破戒」について書きます。これで新潮社発行部数トップ10を攻略しました。いろんな話がありますが、こんなに社会派なのは初めて読みます。感情を扱う小説か、物事を分析する学術書しか読んだことないので、中間の小説って意外と少ないんですよね。

 

 <要約>

 今回の主人公は瀬川丑松君。彼の一族は代々穢多であります。ちなみに穢多は一発変換できません。規制かかってますねぇ・・・。職業は小学校の教師。父親から言いつけられた自分の身分を明かしてはならないという戒めを守っています。ちなみに父親は誰にもバレないように山奥で静かに、牧場を営みながら暮らしています。これもすべて丑松のためです。

 さてこの話、住んでいた宿で金持ちのおっさんが穢多だとバレて、村中の人、宿の主たちから罵詈雑言を浴びせられ、追放されるところから始まります。

 自分もそうなるかもしれないと恐れた丑松君は、蓮華寺に住むことにしました。そこの女将さんや、同僚の銀之助、先輩教員の敬之進と、いろんな人に囲まれながら暮らします。敬之進の娘のお志保に恋したり、なんだかいろいろ進みます。

 そんな丑松の尊敬する思想家が猪子蓮太郎。自分が穢多だということを公表しつつ、思想を本にして広めている男です。丑松は身分を恐れない、堂々とした態度を尊敬し、心の中で先輩と呼びます。

 紆余曲折あって、丑松は父親が死んだとの連絡を受け、故郷に帰ると、学校でも見かけた高柳という政治家を見つけます。また、道中猪子蓮太郎と今度の選挙に出る市村弁護士に会います。先輩と意気投合する丑松。自分の身分を打ち明けて、もっと深い付き合いになりたいと思います。

 しかし、叔父から最後の父の言葉が「忘れるな」だったことを聞き、先輩に告げようとする度に戒めが心を捉え、話すことができません。

 葬式が終わり、帰る途中、高柳が金のために穢多の娘と結婚したことを知ります。選挙で困るので隠しており、それを許せん!と先輩は憤るのでした。その怒りは丑松にもぶっ刺さり良心の呵責に悩まされます。

 さて、蓮華寺に帰ると妙な噂が立っていました。丑松が穢多だというのです。いろんな追及を受けてついに寝込む丑松。この際さっさと打ち明けてしまおうとかとも思います。一方、お志保へ募る恋心。銀之助は最近の陰鬱な空気の原因を、この恋だと考えます。

 またもや紆余曲折あって、市村弁護士と猪子蓮太郎が村にやってきます。そして、高柳の事実を吹聴したことで、先輩は殺されてしまうのです。

 激しい後悔が丑松を襲い、ついに全てを打ち明けることを決心します。学校中の人に泣きながら謝りながら告白し、お志保にも土下座して伝え、一生会うことはないだろうと告げます。告白を聞いた校長は丑松の追放を決めます。元々丑松はここを去る予定だったのですが。

 絶望しながら、猪子先生の葬儀についていく丑松。しかし、そこから転機がやってきます。銀之助は友情を捨てずに別れの手伝いをします。

 そして、金八先生ばりに生徒に大人気の丑松。生徒たちが先生を辞めさせないで!と校長に直談判します。最後は学校の命令を無視して、お別れの挨拶をしに丑松の元にやってきます。

 穢多だと諦めたお志保への恋心。彼女は身分は関係ないと、丑松と結婚する約束をします。

 失った職の代わりも見つかります。最初に追い出された大金持ちが、今度テキサスで新事業を始めるというので、雇ってもらえたのです。

 俺たちの人生はこれからだ!というところでこの話は終わります。

 

 <感想>

 大変陰鬱な話でございました。が、あまり実感がわかない、感情移入ができない。それもそのはず、もう僕には穢多への差別意識微塵もないからです。言葉というのはそれ自体では記号でしかなく、実体と結びつかなければ、ただの文字の羅列でしかないのです。僕にとっては、もはや記号そのものでしかないわけですね。生まれてこの方そういった経験が全くなかったので、指す対象が欠如しているのです。

 などと最初から哲学的な話をしましたが、この本を読んで穢多について考えたので聞いてください。

 「穢多」は江戸時代に作られた農民より下の身分。彼らの仕事は家畜の処刑。毎日血にまみれる彼らは徐々に生理的に嫌われるようになります。この差別構造を幕府は利用して農民の不満を抑えていたとも言います。

 「破戒」では「穢多らしい」という言葉が出てきます。顔つきが陰鬱だったり、体格が不健康そうだとかいう特徴があるというのです。丑松に疑惑がかかったとき、銀之助はこの「穢多らしさ」がないことを理由に疑惑を否定します。この「穢多らしさ」というのは私の人生でも経験があります。

 岐阜の養老は元穢多の人間が多く住むことで知られています。家畜の処刑をやっていたこともあって、あの辺りは高級肉が買えることで有名だったりします。たまたま何かの拍子でその話を母親としたことがあります。その時、母は「あそこの人たちは様子がおかしい」と言ったのです。当時の僕は母が何を言っているのかわかりませんでしたが、この小説を読んだとき、あぁこのことかと思ったわけです。ちなみに僕の両親は相当リベラルなので、部落差別がどれほど根付いているかがよくわかります。

 差別というのは何か一般よりも異質なものが、被差別側になければ成立しません。黒人差別はわかりやすいもので、身体的特徴から差別が始まっています。「いじめ」に関しては、より個人的な感情で発生する場合もありますが、社会構造において一定の集団を差別するためには、より包括的な特徴(肌が黒い)といったものが必要となります。そうでなければ、差別を正当化できないからです。

 そこで穢多にも、穢多らしさという特徴を作り出します。ところが、この穢多らしさというのは、肌が黒いよりも非常に抽象的です。陰鬱な表情なんて、僕も含めた世の中のインキャは全員当てはまってしまう。全員部落だとでもいうのでしょうか?この曖昧さこそが部落差別の大変醜いところであります。

 日本はほぼ単一民族国家で、人種的に差別することは基本的に不可能です。ところが、穢多という人種を作り出すことで、人種差別を可能にしているのです。この小説にも「穢多という人種」という言葉よく出てきます。

 身体的特徴による社会的な被差別集団がいない日本では、人間の思考によって、より曖昧な特徴が作られ、被差別集団を作り出すことに成功してしまったのです。

 ところが、そんな曖昧な定義で出来た穢多は、今回の丑松のように普通の生身の人間関係によって消滅してしまいます。よくネトウヨが言う韓国人はダメだけど全部じゃない、っていう理論と同じですね。社会的集団を蔑視する際には、例外もあるという逃げ道を作ることで矛盾を解消させるのです。

 猪子蓮太郎は自分の身分を明かすことで、教師をやっていた高校から追い出されました。それ以降、社会的に自分の身分を公にすることで、逆に表立って批判することができなくなったのです。隠していたり、引け目を感じている様子があるからこそ、差別が正当化されるのです。特に日本人は公然と差別をすることができない民族なので、公にして自信満々なのが実は一番の対抗策だったりします。

 また、日本でしか通用しない特徴を持った差別なので、丑松のように他国に行けば当然なくなります。閉鎖的な、村的な、狭い世での差別だからこそ通用する方法です。

  部落差別は人為的に作り出された曖昧な人種を元にした、最も人間の醜い行いだと私は思います。この作品が発行された当時は、もっとリアルに読者の目に映ったことでしょう。現代は少なくとも僕の周りでは、そうでもないので社会は着実に改善されていると思います。今後も差別は消えるといいと思いました^^

 以上。