うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

図形、宇宙、小説

お題「好きな作家」

 自販機の光だけがわずかに世界を照らす帰り道。車が後ろから私をライトで照らしながら、抜かしていく。寒さに震えながらも、無表情で、たまに目を閉じてうなだれながら歩いていた。人の歩く音に私はぎょっとした。帰り道だというのに明日のことを考えて、歩みに力が入らない私を静かに追い詰めるような音だった。

 靴のカッカッという音が徐々に迫ってきていた。後ろを振り返っても、その姿は暗闇のせいではっきりとは見えぬ。早く抜かしてどっかに行ってくれ!と思うのだが、スピードは落とせない。機械的に私の足は家を目指し続けた。

 恐ろしくなってスマホを見る。ツイッターでも見て気を紛らわそうとしたが、足音が気になって文字が読めない。
 社会人になってから、音に敏感になってしまった。誰かが何かするたびに、どういうアクションを取るべきかといつもビクビクしている。後ろの誰かほど私の神経を追い詰めるものはなかった。

 その音は少しずつ大きくなる。変な想像が私の脳裏をかすめた。刺されるのではないか?殴られるのではないか?だが、私はそれもいいと思った。ここで人生が終われば、苦痛から解放される・・・。

 見知らぬ陰に神経質になりながら、通りを真っすぐ歩く。ボロアパートの鉄の階段は冷たい風を受けて、今にも崩れそうである。コートに縋りつくように体を丸め、筋肉が強張り、足の動きが早くなる。得体のしれない音はまた遠ざかった。

 それでも暗闇の中から誰か見ている。いや、見ているだろうか?どこも見ていないかもしれない。スマホを見ているだけじゃ?確認したくて仕方がない。しかし、あまり後ろを振り返ると怪しまれる気がして、確認できない。気づけば、コートのポケットのスマホを何度も握りしめて、放してを繰り返していた。後ろに誰かいる事実をどうにかしたかった。首筋をかきながら歩く。

 「どうぞ抜かしてください」と心の中で何度も繰り返した。おかしい。いつもなら後ろにいる人は、どこかで曲がって私と別れる。まだ後ろにいるなんておかしい。やはり、私を狙っているのだろうか。

 考えているうちに歩みが遅くなっていたようで、足音が真後ろにあった。私は手を強く握りしめ、今すぐ引き離したいという衝動を必死にこらえた。斜め右後ろ、車道側に足音が移動した。私は目をつぶり、うつむいた。あぁ!ジーザス!彼は真横にやってきて、抜かしていった。

 私は大きな息を吐きだした。後姿は普通のサラリーマンであった。強張っていた筋肉は緩み、足がフラフラしている気がする。当然の結果であった。この日本にあって、通り魔のような犯罪者がそう何人もはずがないじゃないか。もし会えたらラッキーな人生である。

 安心して思わず天を見上げたその時、オリオン座が私の目に輝いた。ペテルギウスが臨終の時にあって、力強い赤い光を放っている。右にγ星があり、真っすぐ引いた線から逆さの台形が見える。ペテルギウスの対角線上にリゲルがあって、左にあるκ星との直線を底辺に一つ綺麗な台形を形成している。そして二つの台形が重なる底辺の中心に静かな光を放つδ星がオリオンのベルトを象っていた。

 雲一つない快晴であった。冬の大三角が天を支配していた。正三角形にも見えるこの配置に、名前を付ける理由が分かった気がする。ビックバンの後、何の恣意的な要素もなく、勝手に引力によって原子がくっつき、星が出来た。恒星まで大きくなるのは更に限られた確率だ。それが正三角形のように地球上から見える、互いに重力で引き合わない場所に均衡したのである。

 私は昔からオリオン座が好きであった。小学生の時、ノートに百回くらい書いたと思う。そのせいか、目に映るものの点と点を結び付けて図形を作る習慣がついている。天井のただの模様や、柱の角、机の配置等々、何かしらの図形的意味を見出す。おかげで私が文系に行くまでは、数学が得意科目であった。

 三島由紀夫の小説は図形である。冬の大三角やオリオン座と同じ部類である。全く読んだことのない人間には全くわからないかもしれない。しかし、本当に図形なのである。話の展開に真っすぐな直線が引かれていていて、様々な美しい図形が形成されている。

 これはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」にも似ている。絵の対角線上にイエス・キリストが配置され、十二使徒が三人ずつグループになり、主を孤立させている。左右に六人ずつ配置された使徒の頭は弧を描く。一番信心深いとされるシモン・ペトロと裏切ったイスカリテオのユダの頭を直線で結ぶと、キリストの顔がその中点になる。

 話の構成の中にこうした線形美が存在している。だから、三島由紀夫は絵を文字に起こすのが非常に上手い。豊穣の海の「春の雪」では、殉死した軍人の絵を描写しているが、秀逸な表現である。実際に見たことがなくても、かなり正確に想像ができてしまう。全てを読んだ後に、私はその絵をネットで見たのだが、色彩以外はほとんど想像通りであった。

 起承転結がくっきりしているのが特徴である。100冊くらい小説を読んだが、ここまで線を引いた作品を書く作家はいなかった。現代の小説家の場合、下手すると起承転結など知らないかのような作品を書く者までいる。

 そう、この本題は私の好きな作家である。私は三島由紀夫が好きだ。自分の感性に近いからだ。小説とは本来こうして気の合う人間を探す旅である。作者の気持ちになる必要はない。読者の人生がその気持ちにさせないのであれば、仕方ないのだ。だからこそ、気の合う作家を見つけた時の感動は、ひとしおである。

   どの小説も最初は何の変哲も無い話から始まる。退屈なことも多い。焦らされる。後ろの人影に神経質になった私のような目にあう。しかし、名作は最後には星を見せてくれる。自分の人生と合致しているなら、恒星のごとき輝きを放って見えるだろう。

 読者の皆さんも、自分の感性に近い小説家を探してみてはどうだろうか。

 終わり。