うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

うひょー、今まで見てきたアニメについて語る。

 大学時代、民俗学の講義で、怪談は進化しているという話を聞いた。例えば、昔は井戸から死んだ女の人が出てきたが、今はテレビから出てくる。井戸がなくなって、出てくる場所を失った女が、夜中の黒いテレビ画面に居場所を見つけたのである。

 こんな例もある。まだ自然が謎に包まれていた時代、妖怪が人を連れ去る神隠しが主流であった。しかし、最近は東南アジアの発展途上国に拉致される話が主流らしい。北朝鮮などが念頭にあるのは間違いない。

 結局のところ人間の考えることは大して進歩していない。本質は、現実の中に非日常を入れることで、退屈を紛らわせるという一点にあり、そこに時代の要素が加わるというのだ。

 現代での流行りはデスゲームと異世界転生である。

 一つ目に挙げたデスゲームとは、生死をかけてゲームする展開のストーリーである。この型の先駆者は「王様ゲーム」だと私は見ている。高校時代、携帯小説で大流行した作品である。

 ごく普通の高校生が、急に「王様」から指令を与えられ、達成できなかった場合死ぬという話だ。一つのクラスで行われるのだが、まぁとにかく人が死ぬ。死ぬとなると今度は皆が疑心暗鬼になる。喧嘩する。こうして徐々に人間の醜さが表面に出てくるのが、この話の肝である。

 私もかなり熱心に読んだのを覚えている。しかし、全て解決したと思っても、また王様ゲームが始まって、無限ループになっていたので、途中で飽きて読むのを止めた。だが、それだけでは終わらず、私はデスゲームネタのアニメや漫画を読むたびに妙な嫌悪感を感じるようになったのである。飽きただけでは説明できない、何かが私の中に巣くったのだ。

 同時期か、もう少し前だったか、キモヲタの世界で流行っていたアニメがある。OPで有名な「ぼくらの」である。理不尽な世界の中で、子どもたちが殺し合いをさせられるという話だ。最後の最後で更に理不尽な目に合うから、見たことない善良な人間は見なくていいと思う。

 何はともあれ、こういう妙に理不尽な「鬱アニメ」が非常に流行った。王様ゲームと同じくらいの時期である。「鬱アニメ」の大半は今私たちが生きている世界が舞台だ。「ぼくらの」もそうだし、「アナザー」も同様に現実に非現実を混ぜるという構成をとっている。

 まさしく、怪談と同じ手法である。しかし、それはより現実的に、より大規模に、より過激になっている。井戸から女や、神隠しといった話は、個人が静かに死ぬような話だが、「王様ゲーム」や「ぼくらの」は社会全体が被害を被り、死者も多い。

 私はこれらの話を平成の象徴だと考えている。今、日本は平和である。貧しいとはいえ、飢え死にすることはなく、生きていける。死という実存を脅かす、根源的な恐怖はもはや存在しない。しかし、一方で良いこともない。失われた二十年でだらだらと娯楽を享受してきたのが、平成生まれの我々である。

 この退屈な世界で、疑似的に死の恐怖を体験すること、圧倒的な理不尽に恐怖する、刺激を与えるストーリーは最も現代人の求めているものではないだろうか。だから、私は平成の象徴といった。可もなく不可もない時代に、何かしらの刺激を与える手段が、架空の物語だったのだ。死を意識させるこれらの話に触れることで、自らの生を強烈に認識する。初めて人生を生きることを知るのだ。

 

 以上のような考えに至ったのは、最近今際の国のアリスとかいう漫画を立ち読みしたからである。いつも通りのデスゲーム展開なのだが、死を意識して楽しんでいる人間が多数登場する。是非皆さんも読んでもらいたい。ちなみに僕は立ち読みするだけでなく、買ってしまった。インテリ本棚にしようと思ったのに不覚である。

 結局三島由紀夫的な話に戻ってしまったので、もう終わりにする。アニメを見まくったキモヲタも、たまにはこういう風に全体を俯瞰して見てみてはいかがだろうか。