うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

理不尽で、屈辱的な表彰

   今週のお題「表彰状」

   思い返すと、表彰状とは無縁の人生であった。自尊心だけが高い私としては、非常に苦々しい思いを持った。という記憶は特にないのが不思議である。苦々しくないが、理不尽な表彰は覚えている。

 それは、中学時代の夏休みの自由研究のことだ。 当時の私はまだ理系志望であった。ロボットを作りたいという夢に満ち溢れ、エジソン大好き少年である。

   野心家の私は船を作ろうとした。草船ではない。動力が電気で、モーターにつけた羽根で掻いて進む、ちょっと近代的な船である。

   私の想像では非常に簡単にできるはずだった。モーターに底を羽根のように切ったペットボトルをくっつけるだけ。完成したら、飾って見栄えよくするのが一番の難題だと考えていた。

   当然失敗した。羽根をモーターにボンドでつけたのだが、水圧に耐えられず、外れてしまったのだ。そりゃボンドじゃ無理だと、接着剤にした。外れた。 ヤケクソになってガムテープでグルグルにした。外れた。

   釘では止められなかった。モーターの先端は非常に小さく、釘が刺さる空間がない。仕方なく私は断念した。

   今、思い返すと、船を作っている職人のすごさを実感する。 溶接しているとすれば、水圧に耐えるために、何重にも溶接しないとダメだろうし、釘を使うとしても、何本も細かくさして水圧を分散しなければたちまち自由研究になってしまうだろう。一見単純な船も、先人の苦悩によって出来たのだと思うと感慨深い。

   そんなわけで私の自由研究は、扇風機になった。モーターに羽根をつけ、取っ手をつけただけの扇風機である。大変危険な代物だ。顔を近づけて涼しんでる最中に倒れでもしたら、大怪我するだろう。

   ここでも扇風機メーカーの血の滲むような努力を感じた。風を起こすのは簡単だ。自由研究でもできる。しかし、問題は羽根よりガードの方である。風を通すように網目状にしてあるが、自由研究では不可能だ。一定の強度を保ちつつ出来るだけ網目を大きくしたガードを作る必要があるからだ。

   その点、ダイソンはすごい。羽根がない。お客さんの事務所に置いてあったので、社長に頼んで、手を通して遊ばせてもらったのはいい思い出である。

   さて、私は扇風機を持っていった。我ながら奇抜なものだと、自信はあった。しかし、互いに評価する授業の時間、それは見向きもされなかった。純粋に褒めてくれたのは、私の幼馴染だけであった。昔から妙に偽善に鋭かった私は、男友達としては彼だけと仲が良かった。純粋な感情で動くことが多かったからである。

   授業の最後になり、表彰の時間。選ばれたのは引きこもりの作品であった。それはサッカーロボットだった。ボールから赤外線が出ていて、センサーで察知して追いかける代物である。

   私は愕然とした。嫉妬とか、賞賛とか、そういう類のものではない。それを私も持っていた。しかもより高度にプログラミングされたものを作っていたのである。

   なぜ、まったく同じものを持っていたのか?実は夏休みに岐阜市の科学館で、ロボット講座をやっていたのである。皆でまず溶接だのなんだのをやりつつ、ロボットを作り、そのあとC言語なるものでプログラミングをするのだ。そして、引きこもりも同じ場所にいたのである。

    そして、何度も言うが引きこもりより優れたプログラミングをしていた。奴のロボットはドリブルの最中にボールを見失い、明後日の方向に行ってしまうポンコツである。

   私のは全く違う。多少のことでは絶対にボールを離さない、安定したドリブルができた。更に見失ってもすぐに発見して追いかけ始める。明後日の方向に行かないように短いスパンでボールを執拗に探し続けるプログラムにしていた。それに気を取られすぎて、オウンゴール対策をせず、自滅したのは玉に瑕であったが。

   とはいえ、低脳な引きこもりとクラスでトップレベルの頭脳を持つ私、人間のスペックの差が、ロボットにも出ていたのは事実である。

   しかし、表彰されたのは引きこもりであった。

    私はロボットについて、講座で先生やキモヲタの兄ちゃん、隣の友達と試行錯誤して作ったから、自分の作品ではないと考え、自由研究にせず、新しく作った。

   全て間違いだった。思えばくだらぬ武士道スピリットである。結局怠け者のクズに負けたのだ。

   そういう意味で私は日本人だった。せこせこ妙な武士道を胸に、技術を磨くだけ。アピールをしないから、技術では上でも他所に負ける。日本企業はそうやって負けてきた。私も負けた。

   サッカーロボットがポンコツだろうと、素人目には問題ではない。それっぽいロボットが少しの時間ボールを追いかければいいのである。執拗にボールを離さない必要はない。

   亀山モデルがサムスンに負けたのも同じことだ。見ることができればいい。綺麗さはある程度の水準をクリアしていれば問題ない。

   両者の決定的な差は世に出したかということだ。私は出していない。亀山モデルは出すには出したが、日本ばかりで世界を向いていなかった。

   大変屈辱的な敗北を喫した私は、その後いかにアピールをするかという、形を意識することになる。ある意味では人生にも大きな影響を与えた表彰であった。

   みなさんの表彰はどうだっただろうか?屈辱だったら仲良くできるぞ!一緒にルサンチマンを垂れ流そうぞ!

   終わり。

       

おでんの具について語る。

お題「おでん」

 おでんというと、大きな土鍋に輪切りの大根に、三角のこんにゃく、半分に切った里芋、ちくわ、がんも、たまご、ゴボウ巻・・・。温かい出汁の中でじっくり味が染みた具材。湧き上がる湯気から、香ばしい匂いが漂う。寒い通勤時間に想像するだけで体が温まる心地がする料理である。
 おでんの具で一番好きなのは、やはり里芋である。ヌルヌルの中に芯の通ったあの食感が大好きだ。里芋は皮をむくのが非常にめんどくさい。ピーラーが使えないから、包丁でいくしかないが、リンゴの皮むきとはわけが違う。全く包丁が入らない上に、泥まみれで汚い。それだけの苦労もあって、一番美味しい具材として君臨しているのだと思う。

 逆に卵は嫌いだ。茹ですぎて黄身も白身もカチカチで大して美味しくない。口の水分が取られる。何故か人気具材の一角を占めているが、好きだというやつは全員ガイジだと思っている、

  今更だが、おでんの具は色に花がない。たぶん、冬だから葉物の野菜があまりとれず、たくさんとれる根菜を詰め込んで煮た結果こうなったのだと思う。先人の工夫がみられる素晴らしい料理である。

 私は山芋の気持ちがわかる男である。地上は寒い。だが、彼は地球のマントルのパワーによって、いつも暖房ガン回しの部屋でぬくぬくと生きている。たまにモグラや、ダンゴムシが部屋に入ってくるのが気持ち悪いが、快適である。

 そんな私は最近地面から抜かれ、同胞たちの上に横たわっている。抜かれてしまうと食事ができないから、ここ数週間空腹である。とはいえ、動かず寝たきりのぐーたら生活で、太るだけだからいいのかもしれない。隣には葉っぱがたくさん並んでいる。私の体から伸びるものとは別の種類のようだ。寒いわけでもないし、ここでの生活も案外いいかもしれない。

 突然、私は宙に浮いた。体中を包むように五本のしわくちゃの枝が、絡みつき、持ち上げられ、そして落とされた。とてつもなく痛い。同胞たちとここにやってきた時も大概痛かったが、まだ優しかった気がする。今度の衝撃は強すぎる。

 ガラガラという音を聞きながら、移動していく。今度はブンブンという音とともにすさまじいスピードで移動している。こんなスピードを味わったのは初めてである。冷たい風が私をあちらこちらに揺らすのが本当に辛い。

 気づけば私は白い板の上に横たわっていた。水浴びをさせられ、泥をはがされる。そして・・・。痛い!痛い!!いだっだだだだだい!!!俺の皮があああああああああああああ!!!!むける!!!!!むける!!!!!!!!!体が!!!体が!!!!!!半分に!!!!!裂かれる!いだいいだいいだいいだいいだい!!!

 あづいいいいいいいいいあづいいいいいいい傷口にしみるうううううなんだこれは・・・いだいいこの水はなんだあ!?!?!?熱い熱い熱い熱い熱いくるしいいいいいいいいいいいいいいいいいい・・・!!!!

 すりつぶされている!うわああああああああ、いたいだいぢあいぢだいぢだいあい・・・・・。

 こうして里芋は死んだ。

 終わり。

もう一度行きたい場所

お題「もう一度行きたい場所」

 お題スロット便利すぎる。今回のお題はもう一度行きたい場所だそうだ。

 やはりもう一度行きたい場所といえば、イタリアである。

 初めての海外旅行で行ったあの国は本当に素晴らしかった。特にローマ。あの都市の存在そのものが遺跡である。

 日本にも似たようなものに京都があるが、寺社仏閣はどうもしょぼい。全部木造なのが悪い。名前自体は歴史があるものが多いのだが、オンボロか、改装されて歴史もくそもない建物がある。オンボロの場合は悲惨だ。木造の場合、黒ずんでいて、妙なにおいがする。古き良きというより、汚い。「地震に耐えてきた!」などといってもそれは建築家が感動する話で、僕らにとってはただの汚い木である。

 悪口はさておき、ローマの遺跡は本当に素晴らしかった。町のど真ん中にコロッセオがある。コンスタンティヌスの門がある。七つの丘の石造りの街並みがある。そして、何より同じ宗教施設でも教会は石造りで、ガラスはモザイク画が陽光を内部に通し、虹色に輝いている!石に腐った匂いはない!だって腐らないから!既に朽ちかけ、首の皮一つでつながっている寺社と違い、こちらはこれから更に何千年も続く存在感をもっている。

 コロッセオはその巨大さ故、戦争時には壊して武器等の材料にしたそうである。それだけ大量消費してもなお、半分以上残る壮大さ。想像してみてほしい。我々が観客席に座って、ど真ん中のフィールドを見ている視線を。広大な観客席はローマ市民によって埋め尽くされ、皆思い思いの歓声を上げている。ビルと同じくらい高い観客席から見る景色。壮観である。果たして日本にこうした偉大な建築物があるだろうか?

 また、宗教面でも全く違う。教会には寺社と違って本当に一般庶民が祈りにやってくる。日本ではお願いをするときだけにやってくる。普段は何のお祈りもしないのに、怠惰な愚民である。イタリアとは大違いだ。

 すぐ近くにはバチカン市国があり、ローマ法皇がいる。中には大量の芸術品が所蔵されており、教会が美術館そのものである。

 寺社には何があるだろうか・・・?石庭・・・?地獄絵図・・・?汚らしい三次元も知らない絵だらけである。

 システィーナ礼拝堂の天井画を見たときは本当に身震いした。ミケランジェロの書いたあの作品。天井から人が飛び出ているように見え、肉体の力強さに満ちている。

 飲食店も格が違う。店員は客引きに一生懸命で、いつも笑顔でグラッツェと声をかけてくれる。目が合えば、すぐに注文を聞きに来てくれるし、水がなくなればすぐに入れに来る。日本の店員にはその熱心さは皆無である。

 唯一汚いものがあるとすれば、大量の乞食がいるということだ。日本にはホームレスがいても、乞食はいない。何故だかわからないが、日本のホームレスは静かに生きている。しかし、イタリアの乞食はそうではない。驚くほど大きな瘤を見せつける者、包帯でぐるぐる巻きになった腕を叩きつけてアピールする者、ただ拝み続ける者、いろんな乞食が町の至る所に存在していた。

 また、少し綺麗な人間の中には、ゴミの中からペットボトルを漁り、川の水を汲み、100ユーロで売る人、プレゼントのように花を相手に押し付け、受け取ったら金を取る人、写真を取ったら金を取るコスプレイヤーなど、怪しげな人物がたくさんいた。

 天国と地獄が二重になっている場所がローマであった。一日半ほど、歩き回って街並を体にしみこませたつもりではあるが、まだまだ足りない。というよりローマに住みたい。

 とにかく心が揺さぶられる町、ローマに私はもう一度行きたいと思っている。

お題スロットをフル活用する

お題「愛用しているもの」 

 残念ながら、ありきたりな話題しかない私を許してほしい。

 問題スロットでいきなり出てきたのが、「愛用しているもの」だそうだ。今のところ人生で一番長く使い続けていたのは、目覚まし時計である。

 目覚まし時計といっても、普通のものではない。コラショの目覚まし時計である。

 「よいしょ!こらしょ!がんばるぞ!」「おはよう朝だよ!」と起こしてくれる小学生からの愛用の品である。いつだったか、独り暮らしの時電池が切れて遂に捨ててしまった。その期間およそ13年。私の人生どころか、人間の人生においてここまで同じものを使い続けることは滅多にないのではないだろうか?

 そういえば、コラショについて説明するのを忘れていた。彼は進研ゼミのキャラクターである。こどもちゃれんじのしまじろうが、小学生になるとクビになり、代わりにこいつがやってくる。

 主人公のきっずくんが、誰かに買ってもらった赤いランドセル。男なのに、赤なんて変だよ!と大泣きしてしまう。そんな時、妖精が赤いランドセルに宿り、動き出した!という奇想天外な出生秘話を持つ魑魅魍魎である。

 そんなコラショも最近は時代遅れになりつつある。流行のランドセルの色を知っているだろうか?ピンク、青、黄土色、紫・・・。もはや、男が黒、女が赤という常識が崩れつつあるのだ。大人になって赤い服を男が着るのと同じように、ランドセルも赤を背負うことがありうる時代になった。

 もうきっず君のように赤は嫌だ!という小学生は絶滅危惧種なのである。あくまでも、子どもたちと一緒に成長するキャラとして打ち出しているから、現実味がないのは大問題である。長寿キャラの弊害がここに出ているのだ。

 時代とともに消されたキャラもある。らむりんがクビになった。らむりんとは羊の女の子である。気づかぬうちににゃっきーとかいう猫の女の子に変わっている。理由は簡単に想像できる。らむりんが可愛くないからだ。

 羊の女の子というのに無理がある。綿菓子みたいな顔が、微妙にださい。キュートさというよりは、ぼさぼさの髪を連想させる。飛び散った白い毛でできた顔。肌は見えず、手と口だけが出ている。全く可愛くない。それに比べ、猫は非常にわかりやすく可愛い。てきとうににゃーにゃー言わせておけば、男だろうが女だろうが、可愛いと言い出す。

 ちなみに私は猫アレルギーである。お客さんのところで、猫を可愛がっているふりをしたが、帰りの車の中で咳と鼻水がが止まらなくなっていた。毛玉もはくし気持ち悪い。かわいいとか言うやつらはガイジだと思っている。とはいえ、世間一般ではそのガイジが多数であるから、羊から猫に変わったのは当然と言えよう。

 物を長年愛用していると、何かしら弊害が生まれるものだ。コラショのように時代遅れになるものもあれば、もっと便利なものが作られた、ということもあろう。
 それでもなお、特別な価値を見出すことのできる、そんな素晴らしいものを私は手に入れてみたいものである。

 おしまい。

バレンタインデーってのがあるらしい!!!!

 今週のお題「バレンタインデー」

 えー私は本命チョコというのものをもらったことがありません。一年半ちょっと付き合った彼女からすら、もらってません。

 確かあの時は彼女が看護師の試験で大変忙しく、チョコなんて作ってる暇ない!と言われてしまったのであります。私自身、名残惜しい気持ちを心の隅に抱えつつ、彼女の将来のためなら!と前向きな気持ちでもらわない決意をいたしたわけです。

 その一年後も、やはりもらえませんでした。すでに別れかけの冷め冷めの状態でありまして、会ってすらいませんでした。「距離をおこ!」などと言われて、会えなかったのです。

 女心は本当にわかりません。距離を置いて何ができるというのでしょうか?全く相手のことを忘れて、久しぶりに会ったとして、何が変わるというのでしょうか?私は飽きたゲームから距離を置いたら、もう二度と手を付けられません。手を付けたとしても嫌悪感が残るだけです。そういう意味では距離を置くというのは、自然に別れを演出するための技なのかもしれません。

 少々話がずれてしまいましたね。残るは義理チョコでございます。なぜかクラスの女の子が集まって、義理チョコを配る習慣ありませんでしたか?毎年ありましたよ、私の学校には。小中とありました。高校は部活の記憶が強すぎてクラスであったかは覚えていません。

 あの時、中心になって義理チョコを配っていた背の高い女の子。成人式で会って話した時には、40前後のおじさんと不倫していました。しかも堂々と私や友人たちに向かって話したのです。人間どう変わるかわかりませんね、本当に。

 私が一番義理チョコで覚えているのはやはり、吹奏楽部の時にもらったものです。私は大変なリズム音痴で、特に裏を取るのが苦手でした。それでいつも一人の女の子に怒られ続けていました。「うひょー!遅い!」「違う!ターンタタンタン・・・だから!」「メトロノームみて一回手で叩いて!」などなど・・・。

 彼女は野球でいうと主将みたいなものです。吹奏楽は大きく分けて、金管楽器木管楽器があるのですが、それぞれにリーダーがいまして、彼女は金管楽器のリーダーでした。「○○ちゃん」と下の名前でみんなに呼ばれていて、当の僕も呼んでいました。

 さて、バレンタインデーが近づいていたある日、彼女に「どんなチョコがいい?」と聞かれました。私は「ガトーショコラがいい」と答えました。チョコを聞かれてケーキを答えるのはおかしなものです。その間に何があったのか、覚えていませんが、とにかく「ガトーショコラ」といったのです。

 そんなバレンタインデー当日、本当に彼女がガトーショコラを作ってくれたのです。大変うれしかったのを覚えています。毎日怒られ続けていたことも完全に忘れました。所詮義理チョコなのに、ガトーショコラという相当な手間のかかるお菓子を作ってきてくれたという事実が感動でした。ただ溶かして固めただけのチョコとは格が違います。しかも、おいしい。大騒ぎして喜んだのを覚えております。

 ・・・そういえば、私は過去に本命チョコをもらいかけたことがありました。もらいかけた、というのは、見栄を張っているわけではありません。

 中学生の時でした。本を読み、黒歴史を積み重ね、着々とインキャ道を歩んでいた時のことです。私には好きな人がいました。丸顔の静かなタイプの子です。よくしゃべる私とは正反対でしたが、大変仲がよく、まぁまぁいい雰囲気ではなかろうかと勝手に妄想していました。

 彼女には友達がいました。こちらはよくしゃべる子でした。縦長の顔で前髪を左右に真ん中で分けていたので、あだ名は「でこちゃん」でした。今思うとなかなか可哀想なあだ名です。本人は気にしていなかったのか、髪型は変わったことがありません。

 このでこちゃん、がどうも私のことを好きだったようです。勘違い野郎だと思われるかもしれませんが、そうだったのです。いつもメールが飛んできました。最初は携帯を買ったばかりの私は、うれしくて返信しました。そのせいで徐々にエスカレートしていったのです。

 一度、自分の部屋紹介などという動画が送られてきたこともあります。低スぺの携帯だったので、かくかくでなんのことかわかりませんでしたが、犬とベッドが映っていたのは覚えています。

 LINE疲れなどという言葉がありますが、当時の私はでこちゃんのメール疲れに悩まされていました。しかも、本命の子とはあまりメールが続かなくなっていました。もしかすると、裏でどうこうやっていたのかもしれませんね。

 そしてバレンタインデー、でこちゃんが私に手作りをチョコを渡しに来ました。私はメール疲れと、本命の子と話せない苛立ちを抱えていました。一方で、面と向かってもらうのを断る勇気もありません。そこで私は嘘をつきました。チョコは嫌いだ、と。

 それ以来、私は女性が何かしら近寄ってくるのが怖くなりました。ほぼすべての女性が、特別な行為を全く抱いていないことは理解できますが、もしかしたら・・・?と考えると怖くなるのです。

 当時の私は身動きが取れなくなっていたのです。本命の子との道を完全にふさがれ、横から猛烈なアピールが来る。「違うんだ、君じゃない」という勇気もない。だから、ずるずると続いて、気づかぬうちに本命の子が友情で支援している。気づいたときには、バレンタインデーでした。ちなみに僕の友達はそのでこちゃんが好きだったらしく、泥沼関係だったようです。

 高校になって、またそういった境遇に苛まれるのですが、繰り返しても面白くないのでやめます。皆さんはどんなバレンタインデーの思い出がありますか?終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

うひょー、今まで見てきたアニメについて語る。

 大学時代、民俗学の講義で、怪談は進化しているという話を聞いた。例えば、昔は井戸から死んだ女の人が出てきたが、今はテレビから出てくる。井戸がなくなって、出てくる場所を失った女が、夜中の黒いテレビ画面に居場所を見つけたのである。

 こんな例もある。まだ自然が謎に包まれていた時代、妖怪が人を連れ去る神隠しが主流であった。しかし、最近は東南アジアの発展途上国に拉致される話が主流らしい。北朝鮮などが念頭にあるのは間違いない。

 結局のところ人間の考えることは大して進歩していない。本質は、現実の中に非日常を入れることで、退屈を紛らわせるという一点にあり、そこに時代の要素が加わるというのだ。

 現代での流行りはデスゲームと異世界転生である。

 一つ目に挙げたデスゲームとは、生死をかけてゲームする展開のストーリーである。この型の先駆者は「王様ゲーム」だと私は見ている。高校時代、携帯小説で大流行した作品である。

 ごく普通の高校生が、急に「王様」から指令を与えられ、達成できなかった場合死ぬという話だ。一つのクラスで行われるのだが、まぁとにかく人が死ぬ。死ぬとなると今度は皆が疑心暗鬼になる。喧嘩する。こうして徐々に人間の醜さが表面に出てくるのが、この話の肝である。

 私もかなり熱心に読んだのを覚えている。しかし、全て解決したと思っても、また王様ゲームが始まって、無限ループになっていたので、途中で飽きて読むのを止めた。だが、それだけでは終わらず、私はデスゲームネタのアニメや漫画を読むたびに妙な嫌悪感を感じるようになったのである。飽きただけでは説明できない、何かが私の中に巣くったのだ。

 同時期か、もう少し前だったか、キモヲタの世界で流行っていたアニメがある。OPで有名な「ぼくらの」である。理不尽な世界の中で、子どもたちが殺し合いをさせられるという話だ。最後の最後で更に理不尽な目に合うから、見たことない善良な人間は見なくていいと思う。

 何はともあれ、こういう妙に理不尽な「鬱アニメ」が非常に流行った。王様ゲームと同じくらいの時期である。「鬱アニメ」の大半は今私たちが生きている世界が舞台だ。「ぼくらの」もそうだし、「アナザー」も同様に現実に非現実を混ぜるという構成をとっている。

 まさしく、怪談と同じ手法である。しかし、それはより現実的に、より大規模に、より過激になっている。井戸から女や、神隠しといった話は、個人が静かに死ぬような話だが、「王様ゲーム」や「ぼくらの」は社会全体が被害を被り、死者も多い。

 私はこれらの話を平成の象徴だと考えている。今、日本は平和である。貧しいとはいえ、飢え死にすることはなく、生きていける。死という実存を脅かす、根源的な恐怖はもはや存在しない。しかし、一方で良いこともない。失われた二十年でだらだらと娯楽を享受してきたのが、平成生まれの我々である。

 この退屈な世界で、疑似的に死の恐怖を体験すること、圧倒的な理不尽に恐怖する、刺激を与えるストーリーは最も現代人の求めているものではないだろうか。だから、私は平成の象徴といった。可もなく不可もない時代に、何かしらの刺激を与える手段が、架空の物語だったのだ。死を意識させるこれらの話に触れることで、自らの生を強烈に認識する。初めて人生を生きることを知るのだ。

 

 以上のような考えに至ったのは、最近今際の国のアリスとかいう漫画を立ち読みしたからである。いつも通りのデスゲーム展開なのだが、死を意識して楽しんでいる人間が多数登場する。是非皆さんも読んでもらいたい。ちなみに僕は立ち読みするだけでなく、買ってしまった。インテリ本棚にしようと思ったのに不覚である。

 結局三島由紀夫的な話に戻ってしまったので、もう終わりにする。アニメを見まくったキモヲタも、たまにはこういう風に全体を俯瞰して見てみてはいかがだろうか。

 

 

 

  

 

首に巻くは赤い情熱のマフラー

ドアを開けると雪国であった。靴が白くなった。赤信号で車が止まった。

横断歩道を渡ると、老夫婦が道に迷っていた。もちろん、無視した。

さらさらの雪は風に流され、傘をすり抜ける。すぐに私も雪国になった。電車は雪だるま式に遅延する。私は帰り道を走り抜けた。

駅に着いても雪を払わずに、ホームに向かった。中学生の下校と被っているらしい。いつもと違って若い熱気に満ち溢れていた。

背後に階段の仕切りがある、人が少ないところで待っていると、一人の女子中学生が私の隣に並んだ。赤いマフラーに顔を埋め、寒さに震えている。中学生の頃の初恋を思い出す。彼女も同じ色のマフラーを同じように巻いていた。そういえば、あの時・・・。

「ルートは変数じゃねえ!」

と、謎のツッコミとともに、中学生が目の前を駆け抜ける。私の回想はぶち壊された。ルートは変数じゃない?そりゃ当然だ。正しいよ君。しかしね、何が面白くてそんなくだらない一言で、私の綺麗な思い出をぶち壊したのかな?

    気づけば電車が到着していた。大雪にも関わらず、大して待つことはなかった。

    車内も一番前に並んでいれば、座れるくらい余裕があった。

    斜め前の端っこの席に女性が座っていた。マフラーに顔を埋めながら眠っている。

    前髪は自然に右に流れており、丸く小さな顔の輪郭をなぞるように、髪がふんわりと膨らんでいる。目を閉じていても、瞳の大きさがわかった。頰の膨らみは幼い柔らかさがあり、紅潮している小さな鼻がマフラーに触れていて、非常に可愛らしい。

    あの子に似ていた。男友達そっちのけで、休み時間に話していた日々。まるで先生など最初からいないかのように、授業中も話し続けた。当時はそうした事情に疎かったから、自分たちがどう見えるのかも考えたこともなかった。

    突然、電車が止まった。ドアが開いた。冷気が車内に吹き込んできた。上はスーツとシャツとヒートテック、下はスポンとパンツのみ。このアンバランスな服装が社会人の正装だというのは本当に不思議である。タイツを履いてまでスカートを履く女性はなお得体がしれぬ。

  「三番線の電車が十分ほど遅れていますので、到着を待っております。しばらくお待ちください。大変ご迷惑をおかけしております」

    案の定の遅延である。なお悪いことに、こちらの電車は遅れていない。しっかりと駅に停車している。乗客が入れるように、ドアを全開にしたままである。

    駅員は何も感じないのだろうか。乗客は震えているんだから、誰か乗る人が来たら都度開け閉めしてはいけないのだろうか。遅くなるだけならともかくこの寒さは耐えられない。

    ふと、赤いマフラーの子を見ると、まだ眠っていた。窓の外は真っ白で、ドアからは風に流された雪が舞っているというのに。

   幻なのだろうか。あの美しい少女は、この車内で隔絶された存在を秘めていた。私もあのようになりたい。あらゆる記号から解放された存在そのもの、何か一瞬でも触れれば価値を失うあの生の存在に…。

    私の目の前に絶望が舞い降りたのはこの時である。彼女がマフラーから、醜い顔を出したのである。鼻は大きかった。顎はしゃくれていた。顔は長く、可愛さのかけらもない絶望的な出っ歯であった。マフラーによって鼻は小さく、顎は隠れて顔が小さくなり、口も見えなかったのである。

   儚い夢は散った。一瞬動いただけで美は崩れ去った。残るのは寒さのあまり不機嫌そうな表情を浮かべたブスだけである。現実主義者はこの弊害を知らないのだ。欺瞞こそが人生を生きる最良の道具だということから逃げている。実際私は裏切られたのだ。このクソブスに。

   ゲロが出そうなこの体験をどうにかしてもらえないだろうか。私はよくこうした裏切りに会う。夢見がちなせいだろうか?それとも人間である以上、マフラーやら後ろ姿やらで前向きに考える癖があるのだろうか?

    女性の側からすれば迷惑千万だろう。勝手に想像して置いて、裏切られたとはふざけた話である。

   たがそれでもいいたい。期待させんなボケ。赤い情熱のマフラーなんて巻くんじゃねえ、マスク外せ、と。角度詐欺?光詐欺?そんなことするくらいなら写真とんなボケ。

    おやすみ。