うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

ストレイシープ

  朝、職場でダラダラ新聞を読んでいた時のことである。

  「うひょーさん、印鑑のインクって朱と赤どっちですか?」

  と後輩から尋ねられたのだが、全く僕は理解できず「シュと赤?」と聞き返したきり、口ごもってしまった。もう一度きき返そうか迷っていると、

 「私はシュだよ」

   反対側で聞いていたお姉様から助け舟が来た。

 「シュと赤ってなんすか?」

  と反射的に聞くと、

「は?あんたなんで知らんの!インクは朱と赤の二色あんの!」

  といつも通り怒涛の勢いで解説された。後輩はその様子をクスクス笑って見ている。

  「いやいやそんなの見ないですって」とニヤニヤしながら抗議すると、「あぁ、そこは女の子と男の子の違いかなぁ」と納得してもらえたようである。やり取りを聞いていた後輩は「ありがとうございます」とニヤニヤしながら言いつつ、席に戻っていった。

「そういや、最近インク入れても薄いんですけど、朱を入れてるからですかねぇ」

 「スポンジがダメになってるんじゃない?私なんか押す側から入れてるもん」

  「あっそうなんですね、僕のももうダメなんですかねぇ」

   「まだ大丈夫やろ。私はそろそろ直さないといけないなぁ…。あっでも、あと私は数年で辞めるからいらないわ!」

   「えっ!?辞めるんですか!?」

   僕は思わず大声を上げ、お姉様の表情を凝視した。

   「辞める予定かなっ。辞めたいよね、そろそろこの年やし」

    と早口でこちらと目を合わせることなく話すお姉様。わずかに笑顔だが、気まずいことを話す時の表情である。

    そこで話はなんとなく流れたのだが、私の頭の中は縄文土器の模様の如く、ぐちゃぐちゃになった

   つまりどういうことだってばよ!?相手がいるってことなのか!?あの表情の意味は?やっぱり相手がいるってことなのか!?思わず言っちゃったという気まずさの顔だったのか?

   あれ!?もしかして彼氏がいるかどうかを聞く絶好の機会だったんじゃ!?そう、あの時「お相手がいるんですか?」と畳み掛ければよかったのだ。いないなら最高だし、いるのであれば枕を涙で濡らして終わりである。どちらにせよこのどっちつかずの状態からは解放される。

    マイナスに考えれば、純粋に彼氏がいるという事実が露わになる。しかし、プラスだった場合は十分脈も見える。何故なら、いきなり自分の恋愛事情を男の僕にいきなり漏らすわけがないから、それなりに気を許してくれている、と解釈できるからだ。

    相手がいるんですか?という質問は安定行動なのである。マイナスを恐れたところで先延ばしにするだけだから、プラスにかけて行動に出るのが正しい。

   あぁ、なんてことだ、やらかした。あぁどっちなんだ。結局、お姉様に相手はいるのか。そういや誕生日近いし、意識してるのだろうか。

   あぁなんてことだ。僕にはまだまだ時間があるが、お姉様には時間がないのである。モタモタしてると他に行ってしまう。

   どうすりゃいいんだ。どう近づけばいい!?教えてくれ、君たち!! 

   僕はストレイシープ

終わり。

 

読書感想文 岡本太郎「今日の芸術」

どうもこんばんは、僕です。

僕も芸術を知りたくなったのでこの本を読みました^^

 

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岡本太郎と言えば、「芸術は爆発だ!」「何だコレは!?!?」などといったキチガイ名言が有名な男です。そんな奴の書いた評論なんてあてになるのか?と思いつつ読み始めましたが、意外とちゃんと考えている。調べてみると彼は一応東京芸大に入っているから、教養があるようだ。要約していくぞ!

 

第一章 なぜ芸術があるのか 

というくっそ深いタイトルから始まるこの本。完全に三島由紀夫と一緒。いろんな娯楽があふれている中で、心の中は虚しい。その虚しさを埋めるのが芸術。創作だというのです!現実世界に対してたくましく自分の力で作り上げるのが芸術だ!そうだ。

 

第二章 わからないということ

わからないんですね。芸術って。自由に絵を描いてみてくれ。子どもが絵を描いているのを見てくれ。太陽は赤く、丸の周りに線がハリセンボンみたいに引かれている。みんな同じものを書いている。皆、太陽を描けと言われると同じものを書いてしまう。これをこのおじさんは「八の字」文化と呼んでいる。八の字が富士山を表しているとみんな思うからだそうだが、正直我々現代人にはなじみが薄くよくわからない。太陽の話はわかった。

で、現代はその八の字に対抗すべく、抽象芸術とシュールレアリズムがあるといいます。論理を超えた何かを表現しようとした結果だそうだ。

 

第三章 新しいということは、何か

詳しい歴史の話が続く。大昔は教会中心だったから宗教画があって、絶対王政の時代では王様の絵が流行って、革命が起きてからはゴッホみたいな誰でもない絵が流行る。常に芸術は新しいのである。

日本人は日本らしいという言葉に騙されて、現代芸術の新しさを完全にシャットアウトしているがそれは糞野郎だというのが太郎の言いたいことである。

 

第四章 芸術の価値転換

芸術はここちよくあってはならない、芸術はいやったらしい、芸術はきれいであってはならない、芸術はうまくあってはならない。

現実に真っ向から対立して描いた絵は、心地よいものというより不快感が生まれるらしい。ピカソの絵は綺麗じゃないけどいやったらしい。ゴッホの絵は当時狂気じみていると言われていた。そう、芸術こそはいやったらしいのである。

そして芸術はきれいだったりうまくあってはならない。綺麗に絵を描くことは、長年の修行がいる。綺麗に人を描くことは技能である。が、へたくそでも心に響く絵は芸術なのである。岡本太郎に言わせれば、うまいのはただの技能であって、心に響くのが芸術なのだ。

 

第五章 絵は全ての人の作るもの

封建時代は綺麗に王様や殿様の絵を描くことが大事だったし、そもそも見せるものではなかった。だってピカソみたいに王様描いたら処刑ものでしょう?だから、雇ってくれる少数の人が満足のいく絵を描くことが非常に重要だった。しかし、革命が起きた後は商人の時代がやってくる。すると、買い手が一気に増える。しかも王様みたいにずっと雇ってくれるような人は消えてしまった。結果として画家は自由にいろんな芸術を作ることを強いられる。

セザンヌゴッホゴーギャン・アンリルソー・ピカソみんなへたくそ素人画家。だけど認められている。これが新時代の幕開け、全ての人が作るものに変わったのである。

ところが、今の芸術教育は八の字に固まっていて自由がない。これじゃあ芸術どころではない。から自由にしましょう、って話。

 

第六章 われわれの土台はどうか

最後は日本文化の話。お茶や歌舞伎、能だのは歴史を通じて受け継がれてきたものをひたすら繰り返し、逸脱すれば邪道であり、一生その仕事をやらせてもらえない。でもフランスの芸術は常に新しいものへ進んできて、常に現代を映してきた。この差がうんこだという。しかも、こういった芸能は一般庶民がやろうとすると非常に垣根が高い。実際、あの人たちは別の世界の人間だ!と思っている人間が多いだろう。これを岡本太郎は閉鎖的で、日本の発展を妨げていると批判する。

こうした背景を元に日本的モラルが形成されている。謙譲の美徳があって、自分がやると公言すると頭おかしいと言われる。たった一人でやろうとするといろんなところから足を引っ張られる。外国人が褒めてくれれば一流だと思う等々。

くそったれだ!でも芸術の分野で少しずつ抵抗していこう!ということでこの本は終わる。

 

感想

この本を読んで、僕はとりあえず絵を描いたが、ピカソのような絵になってしまった。僕にとっての八の字はピカソだったのである。それを更に乗り越えて自由に描こうとするともう何が何やらさっぱりになってしまい、得体のしれないものになった。自由に描くってこんなに難しいものだと感じました。

また、ピカソとかの現代アートの意味が少しわかった。僕はゲルニカの偽物を見たことがあるが、確かにいやったらしかった。どっからどう見てもへたくそなのであるが、なんだか気持ち悪いのだ。なるほど、芸術は「いやったらしい」。僕が小説を読むとき、面白かったと思う作品もやっぱり「いやったらしい」。大江健三郎万延元年のフットボールなんかは本当にいやったらしい。日本人が読むと吐き気がする作品だ。「いやったらしい」言葉のセンスが素晴らしい。文豪でも目指してはいかかだろうか、と勝手に思う。

歴史について述べているところは、ただただ勉強になった。ここでもやっぱりフーコーが頭を過る。言葉と物が結びついていた時代から、人間の時代に変わったというものだ。綺麗な絵が売れていた時代の絵を見ると、全てに意味がある。宗教画で言うと、ユダが金貨をもっていたり、貴族なら紋章がついている。ところが、ピカソには意味がない。ただいやったらしい。人間中心主義になることで、概念と人間の空隙の不明瞭なところが芸術の対象となっているのだろう。岡本太郎が言う芸術は現代を映す鏡という発想も非常に人間主義的である。現代を映す絵を描いた直後にすぐ新しい人間が生まれ、そこに対する芸術が生まれる。こうして芸術は完全に人間を表すものではないが、一方で表すものとして顕現する。命とか労働とか言語と同じ流れだ。

そして、芸術は伝統によって邪道だとか言われているのを聞いて、僕は小説に対して邪道という概念を用いていることに今更気づかされた。僕は芥川賞の作者について何も感じられない小説は大嫌いである。だが、これが現代なのかもしれない。そういう小説の形もあるのかもしれない。と一回振り返ってみたいとは思った。コンビニ人間をあえて再評価するというふざけた読書感想文を書き始めたら、ぜひ読んでほしい。

最後に日本人論についてだが、こういう人間が書いているのは非常に貴重である。現代の新書の日本人論は売ろうとして適当なことを言っているから当てにならないものが多い。だから、日本人論の書かれた本は新渡戸稲造しか読んだことがない。あれはかなり政治的な要素が強かったが、こっちは芸術的な意味が強い。歌舞伎やお茶といった伝統芸能から出発して、日本の閉鎖性を指摘しているのは非常に面白い。

読書でもこれは当てはまる。今の時代の読書は「頭がいい人」の専売特許と思われている。だが、ふたを開けてみればそうでもない。夏目漱石はただの恋愛小説だし、三島由紀夫はひたすら今を生きろ!!と叫び続けるだけ。

結構本を読んだと思っている僕は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」はそんなに面白くないと思うし、三島由紀夫の「鏡子の家」はつまらないと思う。そこに何か学識だの芸術だのを振りかざす気は全くない。ただ、楽しいかつまらないかなのだ。結局のところ、読書をしている人間なんてそれぐらいしか考えていない。全く頭を使っていない、ただの二項対立。猿でも出来る。だが、勝手に人は考える。読書は「頭のいい人」、「教養人」の娯楽だと。これはさっきの歌舞伎やらお茶と全く同じだ。非常に封建的で限られた人のものだという意識が勝手に作られてしまっている。なんと悲しいことか。全部芥川賞のせいなのは明白である。くそったれ、ぶっこわれてしまえ。

 

何はともあれ、僕は芸術に目覚めたので液タブを買って、芸術を作りまくろうと思う。以上だ。

 

 

日本では出る杭は打たれるとかいう風潮

どうも僕です。最近ブログ大好きです。

さて最近ツイッターでよく見る言葉があります。

日本では出る杭は打たれるという話です。人と違うことを言うと徹底的に潰されるとかいう話。

しかし、私はその発想自体がルサンチマンに溢れていると思う。偉そうに文句は言うが、自分自身が出る杭になったことがない人間が多い。

スティーブ・ジョブズを指してアメリカは自由だと言い張る奴がいる。だが、そもそも彼の場合出る杭だが、叩いたところで引っ込まないほど優秀だったのである。

一方、世の中のネットジャップはどうか?叩かれた程度で勝手に引っ込む意志の薄弱さ、そもそも文句言ってる奴に限って能力はない。結局のところ、型通りの人生を他人のせいにしているだけである。

何故こんなことを思ったのかというと、銀行の偉いやつは大体が出る杭そのものと言ってもいいほどの変人だらけだからだ。しかし、それ以上に優秀なのである。文句を言おうものなら、逆に負けてしまうほど優秀なのである。

私の知る一番の変人は、自分に文句言った上司にキレて無断欠勤したことがあるそうだ。しかし、優秀すぎて許された。名刺も自作の、自称芸術的なものを使っているが、優秀なので誰も文句を言わない。

なにかとネットのゆとりジャップは偉そうに日本は人を育てる気がないなどと言うが、その事実に対抗する気は全くないのである。なんと情けないことか!!!

逆に言うとそれが日本らしさである。あの岡本太郎ですら、リアルで対抗するのは厳しいからまずは絵で対抗するなどと言っているくらいだから、こうした上に文句を垂れるが、戦いをしないスタンスが染みついていることが理解できるだろう。

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とはいえ、私もそう言った雑魚の一人であるから、これからもブログと絵で小さな反抗をしていこうと思う。

以上だ。

 

 

 

 

歓送迎会=縄文土器論

皆さんは縄文土器をご存知だろうか?

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まぁそりゃ知ってると思う。以上の通りだ。

土器とは何か?食べ物を焼いたり煮たりして食べるための、謂わば鍋である。

縄文時代の我々の祖先は、狩猟生活を営み、獲った獲物を調理した。それまでは焼くことしか出来なかったのだから、煮るなんてのは画期的すぎる発明であった。などなど、中学の歴史で学んだ者は多いだろう。

しかしよくよく考えて見てほしい、煮て食べる用途にしては形がおかしくないか?

器を包むように取っ手がぐるっと内側に巻き込まれている。煮物を食べようとすれば、間違いなくひっかかる。

更に教科書には、この縄の模様について強度を高める役割があったと述べている。しかしよく考えてほしい。縄つけるだけならそんなに飾る必要あったか?と。

弥生土器を見てほしい。

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なんと洗練されたフォルムだろう。手は引っかからない、変な模様つけてない。食べやすい!

何故縄文土器が使いにくい形だったのか?といえば、自然という神に祈りを捧げるためだったらしい。

と、岡本太郎の受け売りをひたすら続けた私であるが、これを見ていると歓送迎会を連想せざるを得ないのである。

 

歓送迎会とはなんと無駄なことか!仲良く飲んで話して、仕事を円滑に進める役割があるそうだ。所謂飲みニケーションである。無礼講であり、本音を言ったりする場だそうだ。

しかし、実際には無礼講など存在しない。言いたいこと言ってる奴見たことない。本音を言った奴を見たことがある。その時、周りはどう言ったか?「無礼講やけど…」である。この「…」にはやめろやボケという言葉が含まれている。

さて、本題に戻ると現代の縄文土器たる歓送迎会は、その進行において数々のルールがある。普通に飲んで話せばいいのに、上司に注ぐとか、最初は挨拶、乾杯の音頭、最後は締めの一言と言ったものだ。それが円滑なコミュニケーションに何の意味があるというのだろう。

歓送迎会は来た人を歓迎し、出て行く人を惜しむ会だ。

話は同じである。来た人なんて普通歓迎する。飲まなくてもな。出て行く人は惜しむ。飲まなくても、だ。

しかも、来る人は歓送迎会でもし飲まないと既に仲良くしてもらえない可能性があるとまで来た!

完全に縄文土器なのである。余計なものを大量につけすぎている。僕は先進的な弥生人だから弥生土器のような人間関係を築いていきたい。岡本太郎縄文土器を芸術であり、なくてはならないとしている。それはそうだ。しかし、歓送迎会は芸術ではない。時代錯誤で封建的な儀式なのであり、完全に無駄である。

また縄文土器には自然に祈るためという別の深い目的があったが、歓送迎会には全くない!やっぱり無駄じゃねえか!

 

何より、幹事の俺がめちゃくちゃ怒られながら、文句言われながら予約とれ、段取りしろと言われるのはもう我慢ならない。あのクソ縄文人、劣等人種ジャパニーズは本当にクズしかいない!許せねえ!全員しね!滅びろ!

 

最後はただの愚痴になってしまったが、以上だ。

 

 

 

 

小説紹介 フランツ・カフカ「変身」~あなたは自分を追い詰めていませんか?~

 どうもこんばんは僕です。

 昨日僕は初めて友人に本の解説をしました。漫画で読むシリーズがあって、それでちょっと気になったらしく、質問されたわけです。

 そこで出てきたのはこのカフカの「変身」

 主人公が、突然化け物に変身して、一家の腫れ物になり、最終的にはリンゴを投げつけられて死んでしまうという話。

 で?この小説何が言いたかったの?と思う人は多いのではないでしょうか。
 「訳わからない感じが評価されてるだけだろ!?」とかいう暴論にまで達しかねない人もいることでしょう。

 

 結論から言うと社会で追い詰められたカフカが必死に空想に逃げた小説なのです。

 少し詳しく話を追っていきましょう。

 小説の主人公、グレゴール・ザムザ君は一家の大黒柱。父も母も妹も全員彼の収入に頼り切っています。そんな彼が急に化け物に代わり、仕事どころか家族中から疎まれる存在となります。

 家族の今後を心配して、早く戻ってみんなのことを助けなきゃ!と悩む日々が続きますが、徐々に化け物の体に慣れていきます。意外と快適だなぁなどと思い出したころ、家族もザムザ君の貯金を崩しつつ、少しずつ生計を立てられるようになっていきます。

 最後にザムザ君がリンゴを背中に投げつけられて死ぬとき、既に家族は完全に自立しており、ザムザ君のことを完全に忘れて、はい終わり。

 

 という感じです。

 社会人の皆さん、こう思ったことないですか?「俺が休んだら他の人が困る」「仕事が回らない」だから、「風邪をひいても出社しなきゃ」「有給は絶対とれない」と。

 カフカも社会人でした。同僚の証言によれば、とてもきさくで仕事ができたそうです。僕たちと同じことを思っていたでしょう。

 ところが、彼は僕たちより少し天才でした。「俺がいなかったら困る」という観念に対して、「本当にそうか?」と疑問を投げかけたのです。投げたはいいが、リアルで実践するわけにはいかない。それで小説という空想の中で、自分に似た人物を不条理な出来事によって社会から消滅させたというわけ。ここもやっぱり彼が天才だった。風邪といった体の不調じゃどうあがいても復帰せざるをえないから、変身させて絶対に復帰できない境遇に主人公を追いやったのです。ちなみに主人公が死ぬパターンだと小説として社畜の気持ちが書けないのでこのアイデアもダメです。

 話を進めていくうちに、やっぱり俺っていなくても大丈夫じゃん、もっと気楽に働こう!という気持ちになれるわけです。グレゴールザムザ君も少しずつ化け物の姿になれていったでしょ?最後には死んで消滅しても、家族は勝手に自立する。カフカはこの小説を朗読しながら笑っていたというエピソードもあります。よっぽど追い詰められていたのかもしれませんね。

 

 社会人の皆さん、あなたは自分を追い詰めていませんか?いなきゃみんなが困る!だからどんだけ苦しくても戦わなくてはならないと自分を追い詰めていませんか?もちろん責任感がなきゃ社会は回らない。でも、ちょっとぐらいはいなくてもいいんです。人間は平均化されることで、社会を安定化させているのですから、あなたがいなくても、だいたいなんとかなります。

 体を壊さないように、僕みたいに鬱病にならないように、たまにはガスを抜きながら生きていきましょう。終わり。

「岐阜で熱中症患者5人死亡」の現実を県民の僕が語る

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 どうも、僕です。今回は岐阜で熱中症患者が5人死んだ話について語ります。どんなニュースか知らない皆さんのために、ネットの産経ニュースから転載しますとですね

 岐阜市の「Y&M 藤掛第一病院」でエアコンが故障した部屋に入院していた80代の患者5人が死亡した問題で、病院がエアコンの定期点検やメンテナンスを実施していなかったことが31日、市への取材で分かった。市は病院に対し、業者に依頼するなどし定期的に点検するよう指導した。

www.sankei.com

 まぁこんな感じですね。

 最近は特に公立小学校のエアコン問題で大荒れでした。猛暑なのにエアコンつけない!小学生が苦しむ!とか、耐えることで強い人間に育つ!といった論争がバチバチやってましたよね。東京と地方の格差まで問題になって、ついに国が全部にエアコンつけるとまで言い出しました。

 そんな中、この事件が起きてまたもや大荒れ。というよりは、最近平和すぎてマスコミが報道することないんですよね。だから、熱中症でこんなに大騒ぎになってるんです。

 

 

    ですが、県民からすると、「まぁそうだよね、仕方ないね」くらいの感覚なのです。なぜならこの病院は現代版姥捨山だからなのです。

 そもそも老人は年をとると、一人で生活できなくなって老人ホームに預けられます。ところが、さらに死にかけて動けなくなると治療もしていかなければなりません。でも老人ホームは病院ではないので、医療行為ができない。老人ホームに預けられないとはいえ、家で介護するわけにもいかない。

 こうした事情から、最終的に本当に死にかけの患者を収容する「Y&M 藤掛第一病院」のような病院が設立されているのです。入院している患者は治る見込みはありません。親族からは入院費かかるし、早く死なないかな、程度にしか思われていないのです。本音と建て前がありますから、建て前上は病院で治して元気になってほしい!ということでしょうが。

 姥捨山だということは地元の人間は皆知っています。皆知っているということは病院側も、そういう役割を背負っている自負があるのです。だから、エアコンなんてつけないのです。治療する気がないから、早く死んで次の捨てられた人を収容しなければならないからです。それが費用を払う顧客の意思でもあるのです。

 じゃあなんで今回問題になったの?ということなんですが、実は告発したのが成年後見人、つまり第三者だったのです。当事者の親族からは迷惑千万でしょう。さっさと殺してほしいし、死んだら死んだで今更エアコンだのと文句を言う気はない。ところが客観的にはやはり許されざる行為なので告発したというわけです。

 岐阜にあるのだから、東京にはもっと多くの姥捨山があるかもしれません。全国どこにでも姥捨山はあるでしょう。

 去年、障碍者施設で老人を大量に殺した奴も過去に「溺れかけたお婆さんを助けたけど、親族はすごく冷たい眼をしていた」といった経験を吐露していますし、現実社会には「高齢者の処理」に苦心する人間が大量にいるのではないでしょうか?

 

 ミシェル・フーコーは「監獄の誕生」において、病院は「身体的な異常」によって「社会不適合者」となったものを隔離する設備であると主張しました。この「身体的特徴」は感染症だけでなく、今回のように老衰に伴って「社会不適合者」となった人間も含まれるでしょう。

 そしてどうしても治らない人間は、社会の認識の外で密かに抹殺されていくわけです。つまり正常者の認識から外すことで将来自分もそうなるという意識を希薄にしつつ、「人道的な」入院という方法で正常者の負担を減らして抹殺するのです。こうして社会の機能を阻害しないように、人間の生を調節する機能があるわけです。

 だとすれば、高齢化社会の問題の根底にあるのは、彼らをどう邪魔にならないように殺すか?という点になるのです。社会保障費が財政の負担になっているのにやめられないのは、廃止した後、老人が正常者の認識の中に入る形でのたれ死ぬことになるからです。

 また、孤独死の問題も勝手に死なれると、住んでいたアパートが使い物にならなくなったりと経済的影響が大きい。親族が見捨てたような人間をどうやって葬儀するのかも難しい。

 そう考えていくと、今回のような病院は非常に機能性に優れている。社会保障費は姥捨山の運営費として効率的に使われる。延命治療の費用として使われては社会的に損失になってしまうからだ。一方、かろうじて親族とのつながりを維持させつつ、死の発見が早いため処理も容易。

 以上の通り、社会の機能としてこの姥捨山は非常に有効なのです。


 だから、この病院の問題も今は顕在化していますが、解決することはありえないでしょうし、静かに増え続けるかもしれません。暗黙の裡に社会に必要とされているからです。

 非常にグロテスクな本音の世界は確かに存在しているのでしょう。はっきり断定して顕在化すると、人は反発しますが、本音は違う。

 全く持って吐き気のするような社会で、僕はもう少し生きなければならないと思うと非常に悲しい気持ちになるのです。

 

 終わり。

【悲報】さくらももこ死去

どうも、ぼくです。こんな朝早くに通勤時間に書いてます。

普段通りの仕事辛さにボーッとする日々、朝起きてリビングに移動すると、突然さくらももこ死去というニュースが目に入った。

最近はよく知っている人が死ぬ。秀樹や、歌丸や、桜塚やっくんやら…。ところが今までは誰が死のうが知ったことではなかった。

秀樹に対してはちびまる子ちゃんでやるのかなwなどと言ってみたり、歌丸にはついにネタがネタじゃなくなったなwと言ってみたり、桜塚やっくん最近見ないけど一発屋だったんだなwと言っていた。

ところが今回は違う。僕の笑いの師であるさくらももこ先生が亡くなったのである。

さくらももこの笑いにハマったのは小学生の時であった。フジテレビで日曜日やっていたちびまる子ちゃん。世の中のキッズと同じく、僕も毎週見ていた。

ある日、僕は風邪をひいて学校を休み、小児科に連れて行ってもらった。待っている間は退屈だったから、暇つぶしに本棚へ移動すると、最初に目に入ったのが漫画版「ちびまる子ちゃん」である。

そこで生放送で何度も出しているエピソードに出会う。

ある日、美化委員の前田さんが「放課後の掃除活動」をしようと言い出す。同じ係であったまる子はとばっちりを受けて一緒にクラス中に働きかけるという話だ。

当然はまじたちが猛反発、二人はクラス中の敵となってしまう。そんな有様をまる子が静観していると、前田さんが大泣きしてしまう。

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その泣き顔がブサイクすぎて、まる子は笑いそうになるのだが、同じ美化委員だから笑えない。この板挟みにひたすら耐え続けるという話である。

この時から、僕の笑いはさくらももこ化してしまった。ああいうブラックな笑いの虜になってしまったのだ。

実際このブログの小ネタはさくらももこをリスペクトしているし、僕自身が人に怒られるとき笑ってしまうのもだいたいこのババアの漫画のせいである。

思えば、ピース又吉の「火花」の笑いも完全にさくらももこ節だし、あのおばさんの性格の悪い笑いの伝染は恐ろしいものである。平成のインキャキッズの何人がこのババアの漫画を読んで捻くれてしまったかと思うと背筋が凍る思いだ。

あぁ彼女の死に際はどうだったのだろうか?友蔵が死んだ時みたいに孫に馬鹿にされながら死んでいったのだろうか?

願わくば、僕はそういう死に方をしていて欲しい。不謹慎だが、これこそが僕のおばさんへのリスペクトである。最後は身をもって捻くれた笑いを体現していて欲しい、綺麗な感傷に浸って悲しむキッズなどいては困る。

平成最後の夏に思わぬ喜劇が起こった。

終わり。