うひょーくんのブロマガ

つまりそういうこと

小説紹介 フランツ・カフカ「変身」~あなたは自分を追い詰めていませんか?~

 どうもこんばんは僕です。

 昨日僕は初めて友人に本の解説をしました。漫画で読むシリーズがあって、それでちょっと気になったらしく、質問されたわけです。

 そこで出てきたのはこのカフカの「変身」

 主人公が、突然化け物に変身して、一家の腫れ物になり、最終的にはリンゴを投げつけられて死んでしまうという話。

 で?この小説何が言いたかったの?と思う人は多いのではないでしょうか。
 「訳わからない感じが評価されてるだけだろ!?」とかいう暴論にまで達しかねない人もいることでしょう。

 

 結論から言うと社会で追い詰められたカフカが必死に空想に逃げた小説なのです。

 少し詳しく話を追っていきましょう。

 小説の主人公、グレゴール・ザムザ君は一家の大黒柱。父も母も妹も全員彼の収入に頼り切っています。そんな彼が急に化け物に代わり、仕事どころか家族中から疎まれる存在となります。

 家族の今後を心配して、早く戻ってみんなのことを助けなきゃ!と悩む日々が続きますが、徐々に化け物の体に慣れていきます。意外と快適だなぁなどと思い出したころ、家族もザムザ君の貯金を崩しつつ、少しずつ生計を立てられるようになっていきます。

 最後にザムザ君がリンゴを背中に投げつけられて死ぬとき、既に家族は完全に自立しており、ザムザ君のことを完全に忘れて、はい終わり。

 

 という感じです。

 社会人の皆さん、こう思ったことないですか?「俺が休んだら他の人が困る」「仕事が回らない」だから、「風邪をひいても出社しなきゃ」「有給は絶対とれない」と。

 カフカも社会人でした。同僚の証言によれば、とてもきさくで仕事ができたそうです。僕たちと同じことを思っていたでしょう。

 ところが、彼は僕たちより少し天才でした。「俺がいなかったら困る」という観念に対して、「本当にそうか?」と疑問を投げかけたのです。投げたはいいが、リアルで実践するわけにはいかない。それで小説という空想の中で、自分に似た人物を不条理な出来事によって社会から消滅させたというわけ。ここもやっぱり彼が天才だった。風邪といった体の不調じゃどうあがいても復帰せざるをえないから、変身させて絶対に復帰できない境遇に主人公を追いやったのです。ちなみに主人公が死ぬパターンだと小説として社畜の気持ちが書けないのでこのアイデアもダメです。

 話を進めていくうちに、やっぱり俺っていなくても大丈夫じゃん、もっと気楽に働こう!という気持ちになれるわけです。グレゴールザムザ君も少しずつ化け物の姿になれていったでしょ?最後には死んで消滅しても、家族は勝手に自立する。カフカはこの小説を朗読しながら笑っていたというエピソードもあります。よっぽど追い詰められていたのかもしれませんね。

 

 社会人の皆さん、あなたは自分を追い詰めていませんか?いなきゃみんなが困る!だからどんだけ苦しくても戦わなくてはならないと自分を追い詰めていませんか?もちろん責任感がなきゃ社会は回らない。でも、ちょっとぐらいはいなくてもいいんです。人間は平均化されることで、社会を安定化させているのですから、あなたがいなくても、だいたいなんとかなります。

 体を壊さないように、僕みたいに鬱病にならないように、たまにはガスを抜きながら生きていきましょう。終わり。

「岐阜で熱中症患者5人死亡」の現実を県民の僕が語る

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 どうも、僕です。今回は岐阜で熱中症患者が5人死んだ話について語ります。どんなニュースか知らない皆さんのために、ネットの産経ニュースから転載しますとですね

 岐阜市の「Y&M 藤掛第一病院」でエアコンが故障した部屋に入院していた80代の患者5人が死亡した問題で、病院がエアコンの定期点検やメンテナンスを実施していなかったことが31日、市への取材で分かった。市は病院に対し、業者に依頼するなどし定期的に点検するよう指導した。

www.sankei.com

 まぁこんな感じですね。

 最近は特に公立小学校のエアコン問題で大荒れでした。猛暑なのにエアコンつけない!小学生が苦しむ!とか、耐えることで強い人間に育つ!といった論争がバチバチやってましたよね。東京と地方の格差まで問題になって、ついに国が全部にエアコンつけるとまで言い出しました。

 そんな中、この事件が起きてまたもや大荒れ。というよりは、最近平和すぎてマスコミが報道することないんですよね。だから、熱中症でこんなに大騒ぎになってるんです。

 

 

    ですが、県民からすると、「まぁそうだよね、仕方ないね」くらいの感覚なのです。なぜならこの病院は現代版姥捨山だからなのです。

 そもそも老人は年をとると、一人で生活できなくなって老人ホームに預けられます。ところが、さらに死にかけて動けなくなると治療もしていかなければなりません。でも老人ホームは病院ではないので、医療行為ができない。老人ホームに預けられないとはいえ、家で介護するわけにもいかない。

 こうした事情から、最終的に本当に死にかけの患者を収容する「Y&M 藤掛第一病院」のような病院が設立されているのです。入院している患者は治る見込みはありません。親族からは入院費かかるし、早く死なないかな、程度にしか思われていないのです。本音と建て前がありますから、建て前上は病院で治して元気になってほしい!ということでしょうが。

 姥捨山だということは地元の人間は皆知っています。皆知っているということは病院側も、そういう役割を背負っている自負があるのです。だから、エアコンなんてつけないのです。治療する気がないから、早く死んで次の捨てられた人を収容しなければならないからです。それが費用を払う顧客の意思でもあるのです。

 じゃあなんで今回問題になったの?ということなんですが、実は告発したのが成年後見人、つまり第三者だったのです。当事者の親族からは迷惑千万でしょう。さっさと殺してほしいし、死んだら死んだで今更エアコンだのと文句を言う気はない。ところが客観的にはやはり許されざる行為なので告発したというわけです。

 岐阜にあるのだから、東京にはもっと多くの姥捨山があるかもしれません。全国どこにでも姥捨山はあるでしょう。

 去年、障碍者施設で老人を大量に殺した奴も過去に「溺れかけたお婆さんを助けたけど、親族はすごく冷たい眼をしていた」といった経験を吐露していますし、現実社会には「高齢者の処理」に苦心する人間が大量にいるのではないでしょうか?

 

 ミシェル・フーコーは「監獄の誕生」において、病院は「身体的な異常」によって「社会不適合者」となったものを隔離する設備であると主張しました。この「身体的特徴」は感染症だけでなく、今回のように老衰に伴って「社会不適合者」となった人間も含まれるでしょう。

 そしてどうしても治らない人間は、社会の認識の外で密かに抹殺されていくわけです。つまり正常者の認識から外すことで将来自分もそうなるという意識を希薄にしつつ、「人道的な」入院という方法で正常者の負担を減らして抹殺するのです。こうして社会の機能を阻害しないように、人間の生を調節する機能があるわけです。

 だとすれば、高齢化社会の問題の根底にあるのは、彼らをどう邪魔にならないように殺すか?という点になるのです。社会保障費が財政の負担になっているのにやめられないのは、廃止した後、老人が正常者の認識の中に入る形でのたれ死ぬことになるからです。

 また、孤独死の問題も勝手に死なれると、住んでいたアパートが使い物にならなくなったりと経済的影響が大きい。親族が見捨てたような人間をどうやって葬儀するのかも難しい。

 そう考えていくと、今回のような病院は非常に機能性に優れている。社会保障費は姥捨山の運営費として効率的に使われる。延命治療の費用として使われては社会的に損失になってしまうからだ。一方、かろうじて親族とのつながりを維持させつつ、死の発見が早いため処理も容易。

 以上の通り、社会の機能としてこの姥捨山は非常に有効なのです。


 だから、この病院の問題も今は顕在化していますが、解決することはありえないでしょうし、静かに増え続けるかもしれません。暗黙の裡に社会に必要とされているからです。

 非常にグロテスクな本音の世界は確かに存在しているのでしょう。はっきり断定して顕在化すると、人は反発しますが、本音は違う。

 全く持って吐き気のするような社会で、僕はもう少し生きなければならないと思うと非常に悲しい気持ちになるのです。

 

 終わり。

【悲報】さくらももこ死去

どうも、ぼくです。こんな朝早くに通勤時間に書いてます。

普段通りの仕事辛さにボーッとする日々、朝起きてリビングに移動すると、突然さくらももこ死去というニュースが目に入った。

最近はよく知っている人が死ぬ。秀樹や、歌丸や、桜塚やっくんやら…。ところが今までは誰が死のうが知ったことではなかった。

秀樹に対してはちびまる子ちゃんでやるのかなwなどと言ってみたり、歌丸にはついにネタがネタじゃなくなったなwと言ってみたり、桜塚やっくん最近見ないけど一発屋だったんだなwと言っていた。

ところが今回は違う。僕の笑いの師であるさくらももこ先生が亡くなったのである。

さくらももこの笑いにハマったのは小学生の時であった。フジテレビで日曜日やっていたちびまる子ちゃん。世の中のキッズと同じく、僕も毎週見ていた。

ある日、僕は風邪をひいて学校を休み、小児科に連れて行ってもらった。待っている間は退屈だったから、暇つぶしに本棚へ移動すると、最初に目に入ったのが漫画版「ちびまる子ちゃん」である。

そこで生放送で何度も出しているエピソードに出会う。

ある日、美化委員の前田さんが「放課後の掃除活動」をしようと言い出す。同じ係であったまる子はとばっちりを受けて一緒にクラス中に働きかけるという話だ。

当然はまじたちが猛反発、二人はクラス中の敵となってしまう。そんな有様をまる子が静観していると、前田さんが大泣きしてしまう。

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その泣き顔がブサイクすぎて、まる子は笑いそうになるのだが、同じ美化委員だから笑えない。この板挟みにひたすら耐え続けるという話である。

この時から、僕の笑いはさくらももこ化してしまった。ああいうブラックな笑いの虜になってしまったのだ。

実際このブログの小ネタはさくらももこをリスペクトしているし、僕自身が人に怒られるとき笑ってしまうのもだいたいこのババアの漫画のせいである。

思えば、ピース又吉の「火花」の笑いも完全にさくらももこ節だし、あのおばさんの性格の悪い笑いの伝染は恐ろしいものである。平成のインキャキッズの何人がこのババアの漫画を読んで捻くれてしまったかと思うと背筋が凍る思いだ。

あぁ彼女の死に際はどうだったのだろうか?友蔵が死んだ時みたいに孫に馬鹿にされながら死んでいったのだろうか?

願わくば、僕はそういう死に方をしていて欲しい。不謹慎だが、これこそが僕のおばさんへのリスペクトである。最後は身をもって捻くれた笑いを体現していて欲しい、綺麗な感傷に浸って悲しむキッズなどいては困る。

平成最後の夏に思わぬ喜劇が起こった。

終わり。

 

 

 

 

結局何一つ楽しいことがなかった平成の夏

今週のお題「#平成最後の夏」
平成最後の夏がやってきた。僕は平成生まれ平成育ちだ。

小学生の時の夏と言えば、ひたすらゲームをやっていた。朝9時から15時までしかゲームをやっていけないという家庭内ルールがあったのを覚えている。ゲームはリビングにしかなかったので、常に親の目に晒されており、抜け道がなかった。とはいえ、3年生ぐらいになると既にゲーム自体に飽きかけていたので、このルールは人生の楽しみを薄く引き伸ばしてくれていたと思う。

思えばあの時から実家は息苦しかった。

ゲームをするために朝早く起きるのだが、僕は部屋から出なかった。何故ならいつも母親がヒステリーを起こしているからだ。掃除機をかけたり、洗濯物を干したりしているのだが、いつも大声で怒っている。毎日気が狂ったように叫んでいた。それでいつも僕と弟は部屋から出なかった。

とにかくヒステリーを起こすと、すぐに二人とも部屋に逃げた。僕は弟とそこまで仲良くないが、だいたいこのヒステリーのせいである。年齢を重ねるにつれ、互いに思春期を迎えるわけだが、平日どちらかが怒らせるとどちらかがとばっちりを食らうのである。食らってしまうから結局部屋に籠るしかない。小学生の頃は共通の敵だったが、高校にもなると「あいつのせいで」という出来事が増え、直接喧嘩をしたり悪口を言ったりしたわけではないが、間接的に仲が悪くなっていったのである。

僕は学校も大嫌いだった。大して難しくもないことを45分も目の前で語られるのは非常に嫌いだった。昔から無駄なことが大嫌いだったから、すごく簡単なことを何分もかけて説明する様は本当に耐えられなかった。苦しかった。

男の集団の謎のノリは非常に嫌いだった。いつも誰かが殴られていた。殴られる側も何故か笑顔だった。あの奇妙な光景は本当に意味が分からなかったのである。

女の集団も嫌いだった。僕の隣に座っている子が大変口の悪いやつだった。口の悪い僕はむしろ親近感が沸いていたのだが、当然ながら常人には大層嫌われていた。そんなある日、同じ班にいた女のリーダー格のブスから、今度からあいつと口効くなと言われた。隣に座っていて、散々会話している僕にそんなことはできるはずもなく、結局無視は数分で終了したのだが、人間というのは本当に愚かなものだと身に染みたものである。そういえばあの時から、静かな、自分の意見を言わない「かわいい系」の女の子が嫌いになった。同じ班にいて、ただ何の意見も表明せず我関せずという姿勢が本当に不快であった。どちらにも加担せず私関係ないの^^って感じが本当に憎かった。

 

さて、家に帰ればヒステリー、学校に行けば意味不明な習慣の連続、二つの板挟みの中で生きていた僕は、自然と読書と恋愛に逃避していった。本は他人とかかわらなかったし、恋愛は脳を麻痺させ、少なくとも一人は信用し、好きでいられるように出来たからである。

そういう意味では学校に行けなくなる夏はあまりいい思い出がなかった。平成最後の夏も結局大していいことはなかった。元々平成に期待すべきことはなかったので、新元号になったらもう少しマシな人生が開かれるといいなぁと怠惰にも期待しておく。

 

終わり。

 

読書感想文 ミシェル・フーコー「言葉と物」

どうも、僕です。

今回はミシェル・フーコーの「言葉と物」について語ります。

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くそ難しい本です。あらゆる学説を一気にまとめるという荒業を為したのがこの本。「知」がどのような構造をもって変化してきたか、ということについて述べているのがこの本です。どのように人間の思考の型が変わってきたかという本。知の構造=エピステーメーです。

長いから感想だけ読んでもいいぞ^^

では要約。

最初のベラスケスの侍女の話飛ばす^^。
まずルネサンス。その時代の知は、世界の全ての物が似ているということを見つけることに執心している。
トリカブトが目の形に似ているから目薬になっていることでもわかるように、とにかく相似関係を見つけるのだ。
この似ているという事実を見つけるために、人は目に見える表象に対して記号を作り出す。トリカブトが目に似ているとかもそうだし、宗教画におけるモチーフなるもの、イスカリテオのユダがお金を持っているといった記号が常に発見されるのである。そして、人の話す言語も記号の一つであり、大昔は一つの言語であり、その残滓としての現在の言語から、様々な解釈(相似)を施す。そしてその解釈の上にもさらに解釈が連なる。こうして永遠と相似が続いていくわけだが、その絶え間ない相似関係が最終的に全てに似ている神を想定させる。この横への関係に対して、人間を小宇宙として、天体を大宇宙、そして更にそれを包括する存在としての神へ進んでいく縦の相似関係がある。相似の対象となる平面世界の違いにおける縦の関係である。

次に古典主義時代がやってくる。この時代の言語はルネサンスの無限の注釈をつける役割を捨て、ただ目に見える表象と完全に一体化する。そして相似ではなくてその表象の相違を見つける作業が始まる。

例えば言語学では、より正確に言葉の意味を規定する方法や、その言葉を合体させて意味を持たせる文法が分析されるようになる。そして、言葉と表象がくっつくことによって、文章の構成そのものが意味を持つ。文法すら意味を持つのである。

こうして二つの種類のアプローチが出現する。一つは言葉そのものの発生理論。

最初の人類が、例えばびっくりしてあっ!と言ったような原初的な音節の根本的な指示作用からから、驚きや驚く対象や、驚いた状況や、驚いた表情へと多種多様に言語が展開していく転移の作用が問題となっていく。よく漢字の成り立ちが、人のどういう動作に似ているからこうなっているとか、そういうやつが発生理論。インターネットがネットになったり、グーグルがググるになったり、そうやって変化していくのが転移作用。究極的にはこうしたズレの完成形としての一般的な言語表が出来上がる。中国語や英語といった言語の壁はこうして最終的には一つのグラデーションの中に組み込まれるのである。

一方で、命題と分節化の理論が生まれる。○○であるという命題の根底にある一般文法の問題が生まれる。言葉によって語られる順番によって時間が生まれるわけだが、一般文法は最も正確に表象を記号づける語順等を発見しようとする。それに伴って、その語順の分節化が行われ、それは全ての命題を名詞に分けたとしても○○であるという基本的な概念にたどり着く。なぜなら表象と言葉は一致しているから、全ての名詞は暗に「である」を根底に置くものだと規定せざるを得ないからだ。

 

これが自然に適用されると博物学となり、分類方法に二つのアプローチが取られる。
全く無作為に選んだ二つの表象の間の一つの特徴に関する相違点を発見し、その発見から無限に違いを発見していく方法。

もう一方は表象一般を一定の型にはめ込む構造と、その構造の細分化に伴って生まれる正確な名前の分析。つまり、○○科というような区切りをひたすら作り、その網目を徐々に狭くしていくことでそれぞれを分類していく。

これも最終的には自然存在の表が出来上がる。無機物から人間そして神へと続くグラデーションが出来る。ここでの進化論は現代の進化論ではない。あくまでもこの表が基本であって、現在目に見える自然の中で欠けている形態はまだ存在してないか、天変地異などで絶滅したか、といった理由が考えられ、そこに時間の存在が補助的に生み出される。だから進化論というよりはより複雑な存在が神によって作られた計画が、どこまでできているかどうか、人間という複雑な存在になっていくが、それは進化ではなく全てが横並びに存在しているのである。

 

次は富の分析。経済学である。

上の二つのように今度は貨幣から出発して、様々な富へと分析が進んでいく。つまり、何か価値の基準となるものが自然発生的に生まれ、そこを中心としてそれぞれの価値が位置付けられる。だからグレシャムの悪貨は良貨を駆逐するなどという言葉が出てくる。つまり、貨幣そのものにも商品性を認めるのである。なぜならそれはたまたま有用だったからに過ぎないからだ。

もう一つが価値をもつという命題と交換の理論。

重農主義では自然そのものが価値を持つとされる。そこで掘り起こした無限のもののうち、必要な生活費が捻出され、余ったものが交換へと回される。もう一方の効用主義者によれば、交換されるという事実から出発し、交換されるということは価値がある。そして、その価値が分節化されるのである。

交換されるという命題と、価値を持つという動詞の理論が構築されたわけである。

こうして、指示、転移、命題、分節化の四つの点から生まれるエピステーメーの配置が明らかにされるわけ。

 

さて、こんな風に表象と言語が一致していて、それに基づいて考えが構築されていた時代が徐々に変わっていく。

経済学ではアダムスミスから、マルクスリカードへと移動する。これは今まで交換という事実において価値を見出していたのを全て労働に帰結させる。労働によって価値が生まれるのであって、交換することによって価値が生まれるわけではないというのである。アダムスミスはこうして労働に着目した点において近代経済学の父なのだ。目に見えて実際の表象である交換から、実際には目にも見えない、そもそも交換の際に意識しているはずもない労働に基準が移動するのである。

そこから、生産という概念の導入される。それまでは数量に限界のある貨幣との限界の中で価値を変化させた商品は、労働生産性へと転移させられる。そうすると、労働生産性は個々の企業という独立した因果的な系列の比較という形を伴って価値を生み出すことになる。古典主義では全ての表象が互いに連接しあい、相互に価値を決めていたのに対して、近代では全く独立した生産の一系列の比較として現れるのである。必然的に表れた時間と因果系列は最終的にリカードの定常状態や、マルクスの革命による終末論を生み出す。

 

生物学は解剖学へと変化する。古典主義時代では表象と言語が結びついていたから、分類することが重要だったが、近代ではそれは脇に追いやられ、目に見えぬ組織の理解へと変化する。例えば、人は口からものを食べて、のどをとおって胃、小腸、大腸を通って栄養を吸収しつつ、うんこを出す。この関係性は目には現れない。そうしてまず一番最初に現れる変化は、無機物と有機物の分類である。古典主義時代では石も人も同じ場所に位置付けられていたが、もはや食事をしない時点で全く別の存在となるのだ。また、血液の関係で脊椎動物無脊椎動物が分けられ、植物と人が分けられる。全く別の因果系列をもつ存在として規定される。そして、その組織から生命という目に見えない包括的な概念が誕生する。それによって生命とその存在条件である諸表象の連接が問題となり、死という有限性や生殖による因果系列の連続といった時間の概念が導入されていく。 そうした概念が導入されることによって今度こそ本当の進化論も生まれる。つまり元々あった表に基づいて出たり消えたりする存在形態ではなく、生命の過程における部位の変化としての進化論である。表が先か生命が先かへと変化する。

 

次に言語学は原初的な叫びから様々な言語へ枝分かれしたという発想から、ここの言語文化における特別な語幹と語尾の屈折変化による幅広い変化、普遍的な命題から普遍的な「である」の分節化に向かったのに対し、国や文化ごとに別れた命題の構造(誰が語るかによる文法の違い)から、音声的な分節化(母音と子音の関係など)へ構造が変わっていく。

資本主義の発展と交通手段の多様化に伴い、言語の独立性が認識されたことや、動詞が名詞ではなく、目に見えない意志を示していることの発見があったからである。

 

これによって、バベルの塔によって失われた共通の言語を描き出す試みは終わり、それぞれの国や文化に付随する言語、ひいては思考方法への分析につながっていく。ここでも音声の追加による言語の進化の理論が生み出される。グーグル→ググるのような音声の変化による進化である。これは文化や歴史の流れに伴う進化が想定されているのである。

 

さて、この根底にある考え方の根底にあるのは何か?まぁ人間なんですけども、その人間の分析の構造がある。

 有限性の分析、経験的=先験的反復の分析、思考されぬものの分析、起源に関する分析である。

有限性の分析とは、労働、生命、言語という実体的な概念によって縛られた、人間の有限性の分析である。つまり、労働は人間が行っているものだから、当然人間の一部と言えるが、生まれながらにして労働せざるを得ないという点では人間ではない何かである。生命も生物である以上当然人間のものだが、避けられぬ死、避けられぬ生という点では人間ではない何かである。言語もそれによって人間が思考して生活を営んでいる以上人間の一部であるが、言語でしかものを思考できないという点では人間のものではない。そうした諸概念の限界によって縛られつつ、人間の範囲を設定していくのが有限性の分析である。かつ、この諸概念は人間の経験から作られる。だから、人は絶えず経験から諸概念をくみ取り、その諸概念を分析することで人を分析するのである。マルクスの言う労働の疎外は、こうした有限性の分析の一つなのだ。

次に経験的=先験的反復の分析とは、カントの純粋理性のことである。ア・プリオリな全ての経験に先立つような存在と、経験に基づくが、その経験の根底にあるものの反復である。ちょっとズレているが、簡単に言うと数学と実験の反復である。

マルクスはG→W→G´とア・プリオリな式を提示しつつ、実際に搾取されていう事例を大量に持ち出して、経験に基づいた分析もしている。この二つの方法により互いに証明し合うようなことが経験的=先験的反復の分析である。

思考されぬものの分析。これはコギトつまり、自己意識の分析である。自己意識の定義づけを行うのである。無意識の分析や、人間の表象を認識する自己意識とは何か?と意識を持つ人間をひたすら細分化し、無駄な要素を捨て去って、コギトを浮き彫りにしていくのである。それは生命や労働、言語についても純粋な労働とは?純粋な生命とは?純粋な言語とは?というそのものへの分析となる。

起源に関する分析。これはコギトが、どこから来たのか?労働、生命、言語に縛られた人間はどこから来たのか?そうした起源を考える。起源を考えることによって更なる期限の後退を示していく、○○の原因は何か?をひたすら考察し続ける、これによって究極的には時間の全てが失われるような限界点を見出すことになる。そしてその限界点は同時に終着点でもある。ニーチェ永劫回帰や、マルクスの終末論(マルクスは革命は原始時代への回帰にも見えると述べている。)はまさしくこのループによって作られている。

ということでこの上記四種は言語の四種の構造と対応している。命題と有限性、分節と経験的=先験的反復の分析、指示とコギト、転移と起源といったようにである。

こうした起源の分析、実定性の分析が人間という表象をひたすら拡大していくのだ。もちろん古典主義時代でも相違性による表象の拡大はあった。しかし、それは表象の中で行われるものであり、この人間諸科学はその裏へとひたすら向かって表象を拡大していく、「メタ認識論」としての動きを見せている。

 表象の限界から生み出された有限性を中心とした人間の分析、つまり人文諸科学が発生したのである。機能(生物学の派生として心理学)、葛藤(経済学の派生としての社会学)、意味作用の理論(言語学の派生としての神話、文学の分析)が始まる。この三点からなされる分析は、精神病や、病理社会、意味のない言語を作り出すが、分析が進むにつれてそれらを包括する概念が生まれる。

つまり規範、規則、体系の概念である。機能に対する規範は正常な機能や悪い機能ではなく、それら相互の調整機能とする。葛藤に対する規則は社会の規則の多様性を認めるものであり、優劣を打ち消す。意味作用の理論に対する体系は、無意味と思われるものでさえ、体系としてみればある役割があることがわかる。

この三つの線分は相互に対立したり一緒になることで新たな学問を生み出す。機能の通時態(生きる過程としての歴史性)と葛藤と規則、意味作用の理論と体系の共時態と(人の文化の構造)対立することで、レヴィストロースのような文化人類学が発達する。

葛藤(内面の心理)に対して機能と規範、意味作用の理論と体系(言語や生存における相互調整)の対立により、ラカンのような精神分析学が生まれる。

意味作用の理論(文学)は機能と体系、葛藤と規則(作者の内面の葛藤と脳の働きによる理解)と組み合わさってロラン・バルトのような文学評論家が生まれる。

このようにして実定性は徐々にその境をなくし、人間という存在一般への分析に移動していくのである。また、実定性は最終的に個々の学問の存在を可能にする。つまり労働も生命も言語も人によって微妙に異なるのである。

 だから、構造主義と呼ばれる精神分析学や、文化人類学は元々の人間の歴史主義や精神の明証性に対する批判として新しい学問とされているが、実際のところは、人間諸科学を自己の側に突き詰めていくか、社会の側に突き詰めていくかというだけで、近代のエピステーメーの流れの一部でしかないのである。

ところでこの二つの学問は最終的に言語にもう一度回帰している。古典主義時代に中心となっていた言語がまた力を取り戻している。言語から人へそしてまたしても言語に帰ろうとするとき、人間という概念がまだ消え去ることもあるかもしれない。

 

【感想】

ということで、長かったですが終わりました。

まぁなにはともあれ、非常に複雑な本でありまして、経済学の歴史を追うように本を読んでいた学生時代がなければ、理解できなかったことでしょう。文学について触れてるところもありますが省きました。読みたかったら原本どうぞ。

さて、この本では終盤にかけてちょっと憶測が増えてきて怪しいとはいえ、表象と言語が結びついた、言語至上主義のようなものから、人間を実定性(諸概念)の中で位置づけ、そして人間から出発して実定性をくみ取る人間至上主義に知の体系が変化したという話は非常に興味深いものがあります。

最近SFでよく言われる、アンドロイドは生物か?という話があります。なぜ僕たちはアンドロイドを生物だと考えないのでしょうか?それはフーコーの言う通り、生命を人という存在から定義づけているからなのです。つまり血液が通っていて、ご飯を食べて、呼吸をして、生殖をする人間の仕組みから生命を定義づけているのです。だから、石とかは生物じゃないのです。古典主義時代は違いました。全て同列でした。どれが生命か生命ではないかという分断はなく、全て神の被造物という包括的な概念によって表現されていたのです。

アンドロイドは近代の意味での生命ではありません。血液がない、ご飯を食べない、呼吸しない、生殖しないからです。だから、人はアンドロイドを人間じゃないと言います。

そしてその反論としては、血液=電気といったように人間に似ているとか、感情があるとか、ですが、やはりこちらも人間から生命を考えての反論にすぎません。

アンドロイドについての生命哲学は肯定も反対も結局は近代のエピステーメーの中でプロレスをしているだけなのです。今後AIが発達してアンドロイドが出来た時には、こうした考えを根底から覆すエピステーメーの配置が生まれるに違いないと僕は考えています。なぜなら、AIこそが人間の限界だからです。

生命は上記のとおりですし、労働に関してももはや人間が不要となったときには労働が人間を縛ることはなくなります。言語についてもAIは文化の壁を越えて、共通の言語を使うのです。今まで私たちが固持していた有限性を軽々と乗り越えるのがAIなのです。そうした時に我々は必ず思考の転換を余儀なくされるでしょう。資本主義や自由主義の台頭の中で、人への分析を余儀なくされた近代のように大きな変化が来るのではないかと考えています。

質問は随時受け付けるからコメントしてください。終わり。

 

 

 

新橋の名店、末げんに行ってきたぞ!!!!

 仕事終わりのスーツを着たサラリーマンが増えつつある新橋駅の線路の下、居酒屋が立ち並ぶ一角に自販機が並ぶ場所に二人のキモヲタが立ち座りしていた。あと15分。時間つぶしが目的とはいえ、汗でベタベタ、半袖のシャツに長ズボンといった様子であったから、通行人の誰もが高級料亭に向かう直前だとは思わなかっただろう。

 事の始まりは6月のある日、テレビ番組「林修のニッポンドリル」で文豪ゆかりの店が紹介されていたのを見たときである。三島由紀夫ゆかりの店なんてあるのか?とスマホで調べると、三島由紀夫最後の晩餐なるものが出てきてしまった。

 1970年11月25日、三島由紀夫は自らがリーダーを務める楯の会と一緒に東部方面総監部の市谷駐屯地で、総監を人質にとって演説し、最後に割腹自殺をした。この通称三島事件の前日、彼らが食べた夕食が、新橋の「末げん」、鳥鍋「わ」のコースだというのだ。

 早速私は一緒に行ってくれる友人を探した。しかし、誰もいない。当然であった。このコースは15000円+サービス料・個室料30%の超高級料理なのである。一般的な感覚からすれば、とんでもない料理であるから、「お前は馬鹿か?」などと全員から辛辣な答えが返ってきた。

 最後に頼れるのはネットだけだった。うひょみチャンネルオフ会などと、リスナーの減った今になって、ふざけたことを言いふらし、一緒に行ってくれる人を募集した。それぐらい僕は行きたかった。三島由紀夫の世界を少しでも知りたかったのである。

 すると、さすがネットである。一緒に行こうという奇特なキモヲタが見つかった。ネット初のライン交換を行って、日程を決め、休みを決めた。

 当日は11時に集合する約束をしていた。アキバを巡り、時間つぶしに散歩をし、家系ラーメンを食べ、連れの自宅である永田町の高層マンションに行き、さらにそこから歩いて、新橋に着く。二時間余っていたのでカラオケに行き、それでも時間が余っているからとビル街を散歩し、たまたま辿り着いた自販機前で屯している。

 結局、19時からの予約であったので10分前の18時50分に到着した。入口の写真は撮っていない^^;取り忘れた^^;看板の「末げん」が、隣のカラ館の看板などと混じってすごく見つけにくいのだが、目の前にくるとやっぱり違った。薄汚い居酒屋のビル街の中に、別世界からやってきたような、綺麗な品のある木製の引戸があった、とだけ言っておく。本当にいい意味で浮いているのだ。新橋なんて野蛮な場所じゃなくても、銀座でいいじゃないかと思ってしまう佇まいであった。

 まず、ドアを開けるのが相当苦しかった。何度も言うが、汗でギトギトの半袖シャツに長ズボンのキモヲタ二人である。品の欠片すらない異物が紛れ込んだわけだ。場違いだという事実が私の背中に重くのしかかった。と、いうのは大袈裟で、案外すんなりと入っていった。

 すると、すぐ女将さんがやってきたので「19時から予約している〇〇と申しますが」

 と言うと、さすがに本人を相手にすると恐怖が募ってきた。さっきは嘘だったが、今回は本当である。しかし、もう逃げられない。一瞬の恐ろしい間があった後、「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」と、六畳一間に促された。

 掘りごたつ式の机に案内され、僕は入口から奥に、軍曹は手前に座った。女将がおしぼりを渡し、「本日はわのコースで伺っておりますが」と確認したので、「はい、お願いします」と背筋を伸ばして答えた。二人とも別々に瓶ビールを注文すると、女将が部屋が静かに出て行った。

 二人きりになると、緊張の糸が緩み、「ついに来てしまったな」とかなんとか他愛もない雑談をした。お絞りを触るとめちゃくちゃ冷たい。このくそ暑い日のためにわざわざ冷やしてあったようだ。高級料亭はこんな小さなことまで気配りするのかと感心したが、経験が薄すぎるだけで実は当然なのかもしれない。

 まぁなんだかんでもう書くのめんどくさいので写真だけ張る

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 先付、卵、枝豆、サツマイモ、ささみと明太子の和え物、さざえ(軍曹談、僕は違いがわからない^^)、右はささみの洗い

 このささみが相当うまい。今まで食ったものは本当にゴミだった。ささみといえば、筋トレマニアが「味なんて関係ねえんだよ!」と頬張る印象だったが、ここに来てささみは美味しいという事実を知った。もう俺に低俗なささみは出さないでくれなwわかっちまうからよぉ・・・違いってやつが^^

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 これも奥がささみ、左が鯛?、右がイカ

 当然このささみもうまい。そして、俺は初めて白くないイカを食べた。白いイカは大嫌いだが、これはうまい。頭の部分を切ってあるようだった。うまい。
 

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 鳥鍋第一回。味は醤油と山椒。

 インスタ映えを狙って綺麗に盛り付けて写真を撮ったわけではない。鍋で煮てる写真を撮ってないのかよwと思った貧乏人は死んでくれ。

 女将が目の前で煮て、あくとりをして、盛り付けてくれたのである。みんなで好きな材料を突っ込んで、つつくなんてのは低俗なお遊びなんですよね。

 あと、下に垣間見えるつくねは、つくねの元をもってきて、女将が目の前で箸で綺麗に丸めて作っている。

 ちなみに今回の鳥は奥久慈の軍鶏だそうだ。

 「今回の鍋はオククジの軍鶏です」と女将が言ったので、オククジの意味がわからず、「オククジの軍鶏ですか?」と聞き返すと、「軍鶏です!」と強く言われてしまったので、それ以上聞けなかった。この時軍曹は、僕が「オククジのsyamuですか?」と言ったように聞こえたらしい。あとでスマホで調べたが、奥久慈というのは、茨木県にある軍鶏の名産地らしい。名古屋コーチン的な、地方最強ブランドの一つだそうだ。そりゃうめえや^^

 

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  鍋二回目。今回はポン酢。

 手前の腿肉は当然うまい。これを女将が作っている時、軍曹に「これからどうするの?」と聞かれ、「特にやることない、ここに来るために東京に来た」と答えたところ、女将が聞いていたらしく相当嬉しそうに「ありがとうございます」と言った。そこから、少しだけ打ち解け、

 「どこからいらしたんですか?」

 「岐阜からです」

 「あぁいい場所ですねぇ岐阜は、高山とか」

 「いやぁ高山なんてのは僕ら南の方の人間からすると別もんですよ」

 などと岐阜の話をしたり、

 「ご職業はなにされてるんですか?」

 「銀行員です」

 「あら、そうなんですか、見えませんわ、お堅い仕事されてるんですね、オホホ」

 と言われたりした。

  まだ作っていたので、このタイミングしか聞けないと思い、

 「ここに三島由紀夫が来ていたんですか?」と本題に入った。

 「よく三島先生がいらしたと聞いております、お好きなんですか?」

 と、ここから三島由紀夫トークが弾んだ。なんと三島由紀夫の写真をわざわざ持ってきて食べにくる三島狂いまで来るらしく、僕のような人は今でも多いらしい。

 女将さんの三島由紀夫への評価は割と低く、「家族が大変じゃないですか」などと仰っていた。本も読んだことはないらしい。ホモネタも入り、美輪さんの話も出たが、女将さんがあえて美輪「先生」と言っていたところには、気遣いの片鱗が垣間見えた。

 ささやかではあったが、こういう話ができたのは相当満足である。

 たぶんこの辺りであったが、鳥のレバーと砂肝も入っていた。レバーは豚、砂肝は牛しか食べたことのなかった貧乏人の僕は、非常に感銘を受けた。レバーなのに美味い。やわらかく、あのレバー特有のもっさり感がなく、ふっくらしている。砂肝もじゃりじゃりとしか食感がなく、あの独特の食感だけが残り、噛むたびに染みわたるようであった。

 

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奥からレバー、腿の焼き鳥、ししとう。

ただ美味しい。もう鳥貴族なんていけない。何が貴族じゃw末げんと比べたらお前らなんかホームレスじゃボケw貴族ってのは末げんみたいな店のことを言うんじゃボケwみたいなことを言ったら、軍曹は苦笑いしていた。

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 酔っていて半分聞いていなかったが酢漬け。お腹がいっぱいになってきたころだったので、相当染みわたった。すっきりしていて締めが近づいているんだなぁと悲しくなってきたころ。

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 鍋三回目。最後は醤油と山椒の味付けと、ポン酢の味付けを選ばせてくれた。ポン酢があっさりしていて好きだったのでこっちを選択。とにかく美味しかった。軍曹もポン酢を選択。そりゃそうっすよね。素材が美味いから、特に味濃くする必要はないかなって感じですね。

 

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 雑炊。

 これも目の前で作ってくれた。塩を少し振り、一度味を確かめ、薄かったのか、もう一度振りかけた。二回目で調節しているのだと思う。

 かき混ぜるとドロドロになるというセオリーを当然のように理解していて、静かに煮詰めていた。生の状態での卵は黄色というよりオレンジに近く、相当いい卵だと思われる。漬物も当然美味しかった。

 薄味ながら、十分足りる味を僕は初めて食べた気がする。東海人の舌からすると確かに第一印象は薄かったのだが、しかし漬物がないと食べられないほどではなく、最終的には程よかった。

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 夕張メロン

 僕は白いメロンしか食べたことがなかったので思わず感動して、「メロン!?」と言ってしまった。女将に「メロンはお嫌いですか?」と聞かれ、「いえいえ、全然大好きですよ」と返すと、「この時期はいいですよね~、ちょうど旬でみずみずしくって」と仰ったので、「そ、そうですねぇ、さっぱりしていいですよねぇ」などと答えたが、まず夕張メロンを食べたことがない上、今が旬だということも全く知らなかった。これが必殺しったかぶりである。

 さらに言うと、全て食べやすいサイズに予め切ってあった。僕は今までメロンはかぶりついたことしかない。まさか最後にメロンで驚かされるとは思わなかった。

 味は言うことがない。ただただ甘く、メロンがこんなにも美味しいものだと初めて知った。

 ということで、コースが終わった。感動した^^全てが終わると、トイレにもいったが、まぁ当然綺麗だった。

 お会計の時には、ATMで間違えて出した千円札で支払い。すさまじいガイジっぷりで僕も心底恥ずかしかったが、まぁ払えたからよかった。

 大女将に「ありがとうございました」と言われ、「今度は芥川賞とったら来ます」などと酔った勢いで大口を叩くと、「まぁ」と孫でも見るかのような微笑ましさ溢れる笑いが返ってきた。

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 これでもまだ疑っている貧乏人が多いと思うので、いただいた領収書を貼っておく。

 サービス料個室料で30%払っているが、そりゃここまでサービスしてくれたら当然だと言えるような素晴らしい接客であった。

 あとたぶん食べるスピードを読んで、ちょうどいいぐらいで料理が出てくるのがすごかった。軍曹に監視カメラがついていると言わせるほどちょうどよかった。
 帰り際、靴を履こうとして座ると、大女将が「この板は三島先生が今お客様がやっているように座っていたものですよ、改装してもまだ残っているんです」と言われ、ついつい僕も三島由紀夫になって気分であった。

 最後は出口まで女将が送ってくださり、「今日はありがとうございました」と満面の笑みで送り出してくれたので、「ごちそうさまでした」と言って、去った。

 その余韻に浸る間もなく、キャッチのおっさんが「おっぱいどうっすか!?ちくびラジオ体操やりませんか?」などと低俗な落差をつけやがったが、まぁとにかく楽しい一日であった。一緒に行ってくれた軍曹ありがとな^^

 終わり。

 

レヴィストロース流の考え方を一瞬で解説する(野生の思考)

どうもこんにちは、僕です。

今回はネタがないので、レヴィストロースについて解説します。ニコニコのブロマガでも書きましたが、長すぎて誰も読んでられない!との声が多数ある気がしたので、もっと簡単に説明します。これが顔。

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この人は民俗学者です。民俗学者とは何だ?というそこのあなたのために説明します。よくテレビでやってるような、裸でうろつきまわってるような、原住民族の文化を調べる学者のことです。

 

一言でいうと、「原住民の思考と、現代人の思考は種類が違うだけで、どっちも優劣つけがたい有効な考え方だ」ということですね。

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左側が現代の考え方、右側が原住民の考え方です。

原住民はずっと右側なんです。つまり丸の中の大量の知識を全て分析するんです。

現代の考え方は左側。赤と緑で丸の大きさが違っていることでもわかるように、余計だと考えられるものは捨て去って、より具体的な知識を選別して取り入れる方法です。

 

さぁ、どっちがいいでしょう!?というのがレヴィストロースのお話!

現代の科学は、左側の方法で進歩してきました。仮説を立てることで、幽霊みたいな目に見えないものは排除してものを考えることができて、より役に立つことだけを考えられるわけです。幽霊なんて非科学的な!ってのはこういうことです。

現代の考え方はどんどん他の認識を捨て去りつつも、より縦に知識が具体的になっていきます。でも代わりに、赤→緑の丸を見てもらえばわかる通り、考える視野が狭くなっていきます。しかも、こうやって丸が小さくなっていくんですけど、排除されたのってどうやって消えたの?って考えると、完全に恣意的ですよね。人間が勝手に要らないって判断しただけなんすよね。客観的なんて言いつつ相当胡散臭い考え方してるんですよ、科学ってやつは。

 

一方原住民は、全部を俯瞰して分析します。右側の丸の中を徹底的に隅から隅まで、どんな要素があるのかを分析します。ものすごく広い視野をもっているんですね。普通だったら見向きもされない草の薬効を知っていたりするのが、原住民です。何も捨て去らないから、たまに役に立つ知識も習得できます。

レヴィストロースは築地で大量のマグロにそれぞれ値段が細かくつけられる様子をみて、これが人類の遺産だ、と称賛していますが、野生の思考だからでしょうね。
でも、具体的にはなっていかないので、いつまでたっても植物が細胞で出来てるみたいな根本的な事実にはたどり着けません!

しかも、原住民の思考は人間の脳には耐えられないんです。だって世の中すべてのことを頭に入れるのって間違いなく忘れるでしょ?そもそも入れるまでに死ぬでしょ?

そう考えると現代思考ってすごく効率的じゃね?恣意的だけど、とも言えます。

以上のようにしていくと、一長一短ということで決着がつきます。

わかりましたかね?ちなみにAIはこの両者の思考の壁を越えられる唯一の存在だと思います。全ての可能性を網羅しつつ、全ての知識を深堀していく・・・。人間はできませんがAIなら・・・。もうやっぱり人間はいらないっすねw

皆さんがもし何か物を考えていて行き詰った時には、一度原住民と同じ野生の思考で考えてみてはいかがでしょうか?

終わり。